和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

六角堂の池の坊。

2021-04-06 | 京都
京都の芸事について、梅棹忠夫氏は指摘しておりました。

「京都は、芸事の中心地である。
諸芸の家元はひととおりそろっている。
お茶にお花に、能、狂言に謡(うたい)、仕舞(しまい)、
おどりに書道。絵には家元というものはないようだが、
大先生の塾がある。
それぞれのジャンルに、いくつもの流派があり・・」
(p71「梅棹忠夫の京都案内」角川選書)

この本の1ページ前に「池坊」とある。

「六角烏丸(からすま)には六角堂がある。ほんとに六角のお堂・・
ここはまた池坊、お花の家元である。」

宮本常一「私の日本地図14 京都」(未来社)に
書かれている六角堂はというと、

「六角堂・・・この寺の20世の住持専慶は
山野をあるいて立花(りっか)を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、
26世専順はその奥義をきわめた。

堂のほとりに池があったので、この流派を池坊とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという。
すなわち立花の池坊はこの寺からおこったのである。

もともと仏前への供花から花道は発展していったもののようで、
とくに7月7日の七夕には星に花を供える儀礼が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ、『都名所図会』には『都鄙の門人万丈に
集り、立花の工をあらわすなり。見物の諸人、群をなせり』とある。

このように立花は後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。・・・」(p118~119)

うん。これだけでも足利義政・鎌倉時代・室町の頃と
六角堂の時代背景が見てとれるのでした。

さて、松田道雄は1908年生まれ。
「京の町かどから」で、子どもの頃の『六角さん』を
書き残してくれておりました。

「西国18番頂法寺は六角通り烏丸東入ったところにある。
本堂が金色の擬宝珠(ぎぼし)を頂上にした正六角の建物
であるところから六角堂の別名がある。
京都のものが呼ぶときは六角さんという。

六角さんは、私たち中京(なかぎょう)の子どもには、
その境内であそべる唯一のお寺であった。・・・・・・

何といっても六角さんの記憶は夜とむすびついている。
毎月17日と18日とに、ここに京都でいちばんたくさん
露店がならぶ夜店がでたからである。」

こうして、露店のうんちくを4~5ページしたあとに

「本堂の裏になっている『池の坊』では活け花がいくつも
ならべられて、それを活けた人の名札がたてかけてあった。

家元に花をならいにいっているお弟子さんたちの作品展だった
わけだ。何もわからないのだけれども、いつもしまっている門が
あいているので、はいって一まわりした。

そこを出て本堂の裏のくらいところへくると、
人山ができていて、なかでバイオリンがきこえる。
艶歌師が人のたくさん出たころを見はからってやってきたのだ。
『熱海の海岸散歩する』の歌をきいた覚えがある。
長髪で袴(はかま)あをはいた人が、歌がすむと
うすっぺらな小冊子を売ってまわった。・・・」(p215)

はい。とりあえず、3冊から引用してみました。

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