本棚から、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)
を取り出す。題の脇には小さく「東日本大震災の個人的記録」とあります。
最後には、書下ろし原稿と、新聞、雑誌に寄稿した原稿を加えたとあります。
その次に、産経新聞・週刊ポスト・新潮45・修身・WILL・本の話・SAPIO
文藝春秋・あらきとうりょう・オール読物と寄稿誌などを明記しております。
そうだった。あの大震災の直後から、新聞雑誌で曽野綾子さんの文が読めた。
そうこうするうちに、この単行本が出たので買ったのでした。
今になって、あらためてパラパラひらいてみることにします。
どうして、曽野綾子氏の文がちょくちょく見れたのか?
という疑問に答えているのはここらあたりでしょうか
「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
私はいつも周囲の情況が悪くなった時に思い出される人間なので
はないか、と思う時がある。」(p27)
「約40年間、私はアフリカの貧しい土地で働くカトリックの修道女たち
の仕事を支援してその結果を確認して歩く仕事をするようになった。」(p29)
こうして「アフリカの田舎の暮らしの実態と今の日本を比べ」る視点で
箇条書きに示しておられました。その中からこの箇所を引用。
「 泣きわめくような、付和雷同型の人は、被災地にはほとんどいなかった。
感情的になっても、ことは全く解決しないことを日本人の多くは知っている。
風評に走らされた人は、むしろ被災地から離れた大都市に見られた。」(p30)
うん。引用してみたい箇所が多いので、ここではさわりだけにします。
あと一ヵ所引用。
「 私が地震の日以来たった一つ心がけていたのは、
普通の暮らしの空気、つまり退屈で忙しくて、
何ということもない平常心を失わないことだった。
いくつかの理事会などが延期になったので、
私は外出しなくてよくなり、退屈のあまり
簡単な料理ばかり作っていた。冷凍庫や冷蔵庫の
中身をきれいに整理するための絶好の時と感じたのである。」(p97)
「 4月7日になって起きた宮城沖の大きな余震の時、
仙台放送局内に設置されたカメラが、報道の威力を発揮した。
人々は机の上のコンピューターを手で抑え、金属戸棚は
後ろにひっくり返って散乱した。
揺れがひどくなければテレビの絵にならないだろうから、
これでよかったのかもしれないが、なぜこの放送局は
1回目の地震の後、局内の戸棚や機器を、あり合わせの
ビニールひも、布製の包装用テープ、新聞紙(の折りたたんだもの)
などで止める配慮をしなかったのか。
地震以来テレビ局員は、最高に忙しい人たちだということは
よく知っている。しかし、どんなに疲れ切っていても、
余震は予期されていた。僅かの補強で落ちるものも落ちず、
倒れるものも防げるのだ。後かたづけに時間も取られない。
阪神淡路大震災の時も、電気と水道はすぐに止まった。
ということは、電気掃除機と水雑巾が使えないということだから、
危険なガラスの破片など、昔ながらの箒と塵取りがないと
始末に困ったという。 ・・・・ 」(p99)
はい。最初の方には、1930年生れの曽野さんが
「私と私の世代は、この世に安全があるなどと信じたことがなく育った。」(p19)
はい。あらためてひらくと、あれもこれもと、
この世代の謦咳に接している気分になります。
傾聴したい言葉なのでひと呼吸して開きます。
以前 産経新聞でコラムを連載されてましたね。
いつも 納得のいく内容で
そうですね~と相槌を打ちながら読んでいました。
関東大震災は
私にとって ずいぶん昔のことなので
なかなか思い浮かべることができませんでしが
東日本大震災は 十数年前で記憶に新しい震災なので覚えていることも多いです。
阪神淡路大震災の時は
我が家でも ほとんどの食器が無残にも
落下して 割れてしまいまったので
集めてダンボール箱に一杯詰め込んで
ゴミステーションに持って行きました。
あの時 軍手をはいて 手作業で詰めたのか
それとも 庭ホウキを使ったのか?
コメントありがとうございます。
『あの時 軍手をはいて 手作業で詰めたのか
それとも 庭ホウキを使ったのか? 』
はい。印象的な2行をありがとうございます。
本日のブログ題は『記録を残す』としました。