わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

人間について(3)

2020-08-26 10:48:29 | 癒し
  (前日からの続き)
私なんかがお浄めをします。
先生うちの子が熱を出しました。
学校へ行けません。
あるいは家で喧嘩がたえません。
もちろんそれは悲しいことです。
苦しいし、悩みごとでしょうね。
だから、私はそこで柏手を打つし、
必要であれば、印もきる。
統一会では印も切りましたよね。
今も切ってる。
だけども目の前のことだけで私は印を
切ったり柏手を打ったりする訳じゃ
ないんですよ。
お医者さんがお腹が痛いと言ってる
子どもに頭痛の薬を与えないのと同じ
ようにね、そんなことする医者はいません。
その腹痛の子には腹痛の薬を、止める薬を
与えますよね。
だから、それ相応の光なら光というものを
与えて安心はさせます。
現象を止める。
それはしますけれども、それだけじゃない。
皆さんのこの世だけじゃない生命ね、貫いてる
生命、天命に向かってゆくその限りない生命
というものを、私は一人一人を引き受けている
訳です。
だから、引き受けてるその天命が滞りなく、
できるならば心を真白にして天命を走り抜いて、
神様のみ許に、神様の愛の中に、ただ中に
貫いて走ってゆけますように、そのために
光を送る。
そのために私は印を切るし、それから
柏手を打つし、いろいろな法話も話したり
するわけなんですよね。

だから、目前にいる皆様のことをもちろん
心配しています。
皆様が不幸にならないようにできるだけ
暗い想いにならないように、揉め事が
ないようにいろんなことを思いますよ。
思いますけれども、しかし、心配している
私がいると同時に、本当には心配していない
私もある訳なんですよ。
先生そんな不人情だ非人情だというんじゃ
ない。
ね、私はなんでそんなこと言うかといったら、
皆さんの生命、想い、皆さんそのものが
この世だけの生命じゃないということが
わかっている。
ここを通り抜けていって、また次の障害を
通り抜けていって、そうして一生二生三生ね、
十生百生千生貫いていった時に辿り着くね、
光明の光明体のあの世界というものを
私は体でもってね、この全身でもって
心でもって分かってる訳ね。
だから、そこへ何の障りもなくできれば
送り込みたい訳ですよね。
だから柏手も打つ。
そうして、世界人類が平和でありますように
という祈り言のエレベーターにのって
エスカレーターにのって、皆さんを送り
届けたいわけね。
一人も逃したくない。
           (翌日に続く)




人間について(2)

2020-08-25 10:05:25 | 癒し
     (前日からの続き)
こういう世の中になってまいりまして、
現実の世の中に目をうつしましても、
なかなか自分の思い通りにならないとか、
自分の欲求することが叶わないとか、
そういう現実ばかりにつき当たって
おりますと、人間というものはだんだん
諦めてしまうようになって、そして、
諦めるところから今度何といいますか、
第一線から身を引いてしまうようになって、
第一線からというのは仕事の場だけ
じゃなく心の部分からいっても、第一線
から身を引いてしまうようになって、
そうしてだんだんだんだん人間の本来の
生命からいうと、その生命が萎びて
しまうような、そういう世界になって
来ている訳であります。
で、萎びきったらもうそこで終わりってな
もんですけれども、萎びきりはしないわけ。
なぜかというとそれは、神様からの生命
でありますから萎びる訳がない訳で
ありまして、萎びる訳がないけれども、
一歩誤れば萎びるかもしれない。
その切り岸のところに立って、危ないところに
立ってる人間の今の状態というものを
神様の方がごらんになってですね、そうして
何をすればいいか、どうすればいいか、
人間を元のとおりにね、人(霊止)にかえす
ためにはどうすればいいか。
そのことをずっとお考えになっていろんな
人を出しました。
私なんか御用に呼ばれてですね、そうして
世界平和の祈りというものを受けて、
この地球世界の浄化というものをですね
仰せつかって、そうしてこの運動というか、
この神様の愛を広める、そのための場所
として私の生命が使われた訳であります。

こういうことを考えておりますとね、人間
というものの可能性の深さということね。
つまり人間の方から、肉体の人間の、
ややこしいですけれども、肉体の我に
おおわれちゃった、我に邪魔されちゃった
肉体人間の意識の方からすると、人間
なんてものは果敢無い(はかない)もんで、
生命が消えちゃったらもうその人は
この世の中にいないわけだし、そこで
どんな働きを今までしていようが何して
いようが評価されていようが、どんなに
財があろうが何があろうが、そこで
断ち切られちゃったら終わりになる
訳ですけれども、そうじゃない。

つまり、生き通しの生命の霊界の方
神界の方から見ますとね、神様の愛
というものは、財力を失わせてあるいは
財力を与えて、だから万歳とかだから
良くなかったとか、ここで人の可能性を
切っちゃうとかそんなもんじゃ
ないんですね。
神様というのはあくまでも、どんなことが
あっても人間を愛し抜く。
愛して赦して赦して赦しっぱなしの生命
なんですね。
あるいは愛しっぱなしの生命なんです。
そうして、その愛というものには尽きる
ことがない。
無限なんですね。

その無限の愛を注がれた人間の本体という
ものを、私たちは、私たちの肉体のこの奥に
持ってる訳です。
そうして実は、この肉体を養っているものの
無限の愛の種をもってる自分自身、本心
なんですね。
だから、それが自分なんだっていうことに
気がついた時の人間の可能性ですよ。
その可能性というものはね、これは無限
なんですね。
これはひたすら天命というものに向かって
走り抜いてゆく生命なんです。
天命というものは、これは一生二生の
もんじゃない。
何十生何百生何千生のものなんですね。
         (翌日に続く)

人間について(1)

2020-08-24 06:46:36 | 癒し
私のあまり広くない家の庭ですけれども、
庭には色んな花が咲いておりまして。
その花の生命といいますか、自然の造形の
美しさというものに見とれることが
しばしばあります。
そして、自然というものの持っている
霊妙な心といいますか、神の心を映した精妙さ
というものにしばしば感動することがあります。
花なら花の生命、木なら木の生命そのものにも
感動致しますけれども、やはり、その木を
生かしている、木が木であること、花が花
であること、ありのままのそのままの生命の
ままに咲いてるその姿に感動を覚えないでは
いられない訳であります。
人間というものも、生まれたての頃
といいますか、この地球に降りて
まいりました頃というのは、そのままの
ありのままの生命でありまして、こういう
業が今のように地球の内を蔽っていると
いうふうな、そういう世界でなかった頃
というのは、本当にやさしい言葉で言えば、
神様と人間がツーカーの間柄であった訳
であります。
ツーカーの間柄というのはどういうことか
というと、それこそ神様と直接話が出来て
というふうなそんな親しい間柄であった
訳であります。
それは、話が出来て偉いとか何とか
じゃなくて、神様の心を心として生きる、
つまり、あるがままに生きるということが
出来た時代から、この地球世界というのは
始まっていった。

ところが、この地球世界というのは元々荒い
波動でありますから、何度も申しております
ように、色々な物質現象などを出現させて、
そして、人間もだんだんに肉体というものを
まとっていきませんと、この荒さの中では
生存が出来なかった。
その生きる、生きていく、毎日を競争して、
いろんな天敵なんかと、あるいは病気なんか
と戦って生き残ってゆく。
そのためには随分と工夫も努力も、あるいは
科学の発達も医学の発達もいろいろなものを
産み出していかなければならなかった訳ですね。
つまり、科学療法といいますか、対症療法
といいますか、そういうものを産み出して
ゆかないと、この肉体そのものを養ってゆく
ということが不可能になった。
そういう時代になって行った訳です。

そういう時代になるに従って何が薄れていった
かというと、神様とのつながり。
ね、自分の元々の本体が霊であって、霊なる
生命であって、そうして、その奥の体の自分と、
光そのものである自分と、神様からの愛
というものが本当に一つで、純粋無垢に一つで、
昔は赤子のように頼り甘え、対話も出来、
そういう時代があったんだということ自体
本心本体はわかっておりますけれど、肉体を
まとってしまって我というものを生まれ
させた人間からは、なかなか想像も出来ない
ような遠い世界のように思わせてしまった。
そういう時代がもう何十年何百年何千年何万年
と続いて今になっている訳であります。
         (翌日に続く)

合気道について(4)

2020-08-23 07:16:11 | 癒し
       (前日からの続き)
武道の武というのは、それこそ戈をおさめる。
昔の話じゃないですが、すべての武道はそこへ
行くわけですね。
武は愛なりなんですね。
その、武は愛なりを悟った人、悟って私に
バトンタッチをして下すった先生、それが
植芝先生なわけね。
だから、植芝先生が拓いた合気道、先生個人の
ものではないけれども、神様の流れというものが
植芝先生の肉体の奥に感応して、そして開かれた
気の流れというものは、この合気道の中に流れて
いる訳です。
その流れを少しでも祈り心でね、打ち込んで
ゆく人、打ち込まれてゆく人、やってゆく人は、
それを自分のものにして、天に宝を積むように、
自分の魂に宝を積むということが出来る。
そういう人になってゆく訳ですね。

合気道だけじゃない、いろんな物事、いろんな
行為、武道だけじゃなくて、日々の営みそのものが
やはり気の流れを受けて、その神の愛の気の
流れを流してゆく。
皆流してゆく。
皆平等に、子どもから老人に至るまで、私たちは
それぞれの立場立場、持ち場持ち場で、その役目を
持っている。
そう考えませんと、これはおかしなことになって
ゆく訳ですね。
合気道だけがすごいんじゃない。
偉いんじゃない。
そこへ立つ、そこで祈る。
祈りの座へ、本心の座へもってゆく、もって
ゆかれやすい。
その先達の役目を務めたのが合気道なんだ
ということ。
だから合気道をすることによって、皆さんが
自分の祈りの生活を深めて、日常を少しでも
過ごしやすくして、体も心もすこやかに
してゆくということが、現実生活を豊かに
してゆくということがですよ、精神的に豊かに
してゆくということが、本当に人間の気持ちを
ひろやかにしてゆくということになる訳ですね。
それが同時に、世界人類が平和でありますように
というこの祈り心ね、祈りそのものの光を
拡めてゆくことにもなる訳なんです。
     昭和63年5月5日
        五井昌久

合気道について(3)

2020-08-22 10:29:31 | 癒し
     (前日からの続き)
植芝先生のフィルムが残っていますよね。
何べんも何べんも言ったことですけれども、
あれは、植芝先生は光になっている訳ね。
あれは神様の体になっていますよね。
神様の化身だから神様の光になって
出てきてるけれども。
といって、植芝先生をまつり上げる訳
ではないですよ。
皆さんがそういう光の体になって、皆が
その光の体を持ってる訳ね。
それを、植芝先生は合気道という一つの
武道の中に体現した、現わした。
そういう人なんですね。
だから皆さんが祈り心でもって、木太刀を
もって、合気道という武道をやる時には、
やはり同じような気の流れが、世界平和の
祈りを通じて、私を通じて、私の中にも
植芝先生がいらっしゃるから、その愛の
気の流れが流れてゆく筈です。
そうして、その武道をやってゆくうちに、
自分の中の霊性開発もでき、それから
自分の肉体もすこやかになり、まわりにも
気がまわるようになってゆく筈です。
だから、そういう合気道というのは、ただ
単なる武道じゃなしに、本心開発の先端を行った
といいますかね、先達を努めたといいますかね、
そういう武道なんだということ。
それを忘れちゃいけない。
            (翌日に続く)