わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

言葉を超えた心

2011-02-19 09:54:34 | 癒し
 言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、人間には
沢山あります。よく、あの人は論客だという言葉を耳に
します。たしかに雄弁な人の言葉は、ちょっときくと耳に
さわやかなものです。

 しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた思想や哲学
でも、たとえば、人間やいのちというものを突きつめて
ゆくと、どうしても答えが出てこなくなってしまうのです。

 なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、人間の
存在というものを科学的に説明しょうとするからであって、
究極まで参りますと、おのずから言葉にならない世界に
突きあたるのであります。

 そこで、ここからが宗教の領域ということになるので
ありますが、シュヴァイツァーが、生命への畏敬といった
あの言葉は、科学者として、また、一人の人間として、
実に真理の的を得た言葉だと思うのであります。

 人が、科学の究極まで人間というもの、いのち
というものを、それぞれの分野で追いつめたその時に、
生まれるものは、畏れをもった沈黙でありますが、
生命の畏敬という彼の言葉は、この沈黙の前に、人間が発した
尊い言葉であると思うのであります。

 ところで、ここまでのことではなくても、人間には、
いわくいいがたい思いというものがありまして、それは
言葉では表わせないということがいくらもあるのであります。

 目は口ほどにものをいうということは、我々が日常に経験
していることであります。こういうときには、我々は、
言葉よりも、直接に、相手の心にじかに、自分の心をぶつけて
ゆくことになるのです。

 無言であっても、その無言であることが、百万言をついやす
よりも、その人の心をあらわしているということです。

 私ども、宗教にたずさわります者は、こうした心、言葉を
超えた人間の心というものに敏感でなければなりません。

 心というものを言葉でおおうことは出来ません。言葉を
心でおおうことを、むしろ、私達は心がけるべきであります。

 そして、自分の心と、人の心を大事にして、ともに祈りの座に
つきながら、愛という、人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
            昭和61年8月29日
                         五井 昌久