わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

 道

2011-02-08 09:50:11 | 癒し
 道というのは、色々な種類がありますね。一本道、三さろ、人生の

別れ道なんてね、別れの一本杉という歌がありましたけども、一本と

いうことでいえば、あれも一本で立ってるわけね。

 で、杉の元々はというと、生命でしょ。わたくしがいつもいっている

波動、光ですよね。

 で、いつもいっておりますように、人間というのは、この世にも、

人間界にも、幽界にも霊界にも、神界にも、自分というものが存在して

いるわけですね。そうして、それぞれが波動でできている。そうすると、

元々が光である我々、神の分御霊である我々に、何も「道」なんぞ

というややっこしいものは、なくてもいいように思う、ねえ。

 車が走るから、車道があるでしょう。運転席をおりて歩けば、今度は

歩道ですわね、まあ、これは、今、皮相的な説明をしたわけで、

たとえば、習い事にしても、茶道があり、華道があり、書道があって、

なんか、我々人間のおもい、人のおもいとして、「道」という言葉に

すがって生きているようなところがある。

 これは間違いですか?と、今、私の話をきいている人の中には、気の

早い人がいて、答えを先どりしたような顔なすってる方も二、三

ここから見受けられますけども、間違いじゃあない。

 じゃあ、どうして、何でもかんでも「道」という言葉をつけるんだろう。

 もっというと「道」とつくと、ありがたいような、尊敬したいというか

一寸あおぎみるような心持ちになるのは何故なのかと申しますと、それは、

人間というものは、何かよりどころとするものがなくては生きてゆけない

存在だということなのであります。

 もちろん、茶華道といったって、そんなに気を入れて、たずさわって

いる人ばっかりじゃあないでしょうし、又、「道」というものが、人間の

心の奥底で、それを意識させることによって「よりどころ」となっている

ということを自覚して、たずさわっている人は実に少ないのであります。

 そこで、今日は、このよりどころということと、「道」のおはなしを

しようと思いますが、では、「よりどころ」=「道」かというと、

これも、微妙にちがうものなんですね。

 ちがうもの、といいますのはね、今、わたくしが申しました

「よりどころ」というのは、あくまでも、人間の私たち一人びとりの心の

側からみた「よりどころ」なんで、これは決して、神様の方からのおもい

じゃないんです。

 人というのは、弱い、苦しい存在ですから、何か、神様神様と普段

思っていてもね、祈っていても、どうしようもないことにぶつかると、

神様も何だけれど、もっと確かなものが欲しくなる。

 たとえば、苦しい時に人がそれをみていてくれる。あるいは、病気で

苦しんでいる時に、手をにぎってくれる。これらは、その辛い目に

あっている人たちからしますと、何よりも、確かなよりどころですね。

 人の手のぬくもり、なぐさめ、これ以上確かな、現在、味わうことの

出来るよりどころはないわけです。

 けれども、つねにいっておりますように、「すべては消えてゆく姿」

なのでありまして、よいことも、わるいことも、すべて、すぎ去ってゆく

ものなのであります。

 それは、どうしてかというと、生き徹してゆく一人一人の本体

(たましい、霊体)が一段一段階段を上るためなんです。ここのところを

忘れたり、間ちがえたりしますと、楽しい時は、どうして早くすぎて、

辛い、苦しい時間はどうしてこうも長いのだろうとため息をつくことに

なるわけ。そこで、これは、「よりどころ」真実、真理に通じるものでは

ないわけです。何も、私はここで、苦しんでる人をなぐさめるのは、

真理に遠いなんていうつもりは毛頭ありません。

 そうではなくて、辛いことは勿論ですが楽しかったことでも、

いつまでも、その瞬間にこだわっていますと、いつしかそれが執着になる。

 とらわれのおもい。人間の発する想念というものになるわけなのです。

 そこで、整理してみますと、それじゃあ、そういう人の思いとしての

行為、よりどころと思って、我々の心がみんなすがってゆく

ぬくもりなどを、永遠のものではないとしますと、何の為に、「道」

というもの、「道」とよばれるものが、我々の前に与えられているのか

ということになろうかと思います。

 先程、茶道華道というものを、この話の導入として申しました。で、

結論から先にいいますとね、本来、「道」と名がつけば、それが、習い事

であっても芸事であっても、それは、人間が神様の子どもになるそのため

の修行の場に行かされているんだといっていいんです。

 『中庸』に道についての孔子の言葉が出てきますわね、

「人、道に遠きは」とか何とかむずかしいことがかいてあるけれども、

要するに、我々の日常生活の一瞬一瞬の中に、道(人がおこなってゆく

道)というと、ややこしいか。つまり、生き方というものはあるんだと

いうことがかかれています。

 神様というのは、遠い遠い所にいるのではなくて、みんなの眼には

みえないけども、もう光になって、充満しているわけ。みなさん一人

一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃるわけです。

 イエスが、みんな一人一人が神の宮なんだということを言っていま

しょう? ね、あれと同じなんです。それども、イエスも申しました

ように、現代という時代は、まことにやっかいなことに、「しるし」を

求める時代ですよね。御免状なんてね。

 で、あまり「寄り道」をしますと、こんがらがってはいけませんから、

手短かにいいますと、この道というのは、わたしどもが真理の階段を

上るための一つの姿として、あらわれとしてあるのであります。

 つまり、どんな「道」も、それが華道であっても茶道であっても、

そこに加わるということは、大神様が、守護霊守護神が、働かれて、

しらずしらずの間に、私どもの本体である「光」をかがやかすための

ものなのであります。

 そうして、これは、何もお茶やお花や、書をやっている人だけとは、

勿論かぎるものではなくて、私たちの心の奥に、人間として生まれた

以上は、何か一つことをやり遂げたい。根を張って生きてゆきたい

という思いが、たとえば、誠実に生きるなら、誠実に生きるという

ことを生涯の目標としてかかげることも、神様につながる道につながる

ことなのです。

 つまりは、この神様につらなるための手段(方法)として、万人に

その人となりの「道」があり、これを通じて、真のよりどころである

完全円満の世界、大神様への世界につながってゆくというわけで

ありまして。

 人が辛い時に、手のぬくもりを求め、そこから、何かしらかわらない

ものを求めて、各々が「道」に志す。で、これを我々はいつか

「よりどころ」だと思って生きるわけですが、実はもう一つ奥に、この

「道」を手段とした宇宙神という真のよりどころ、永遠に目ざすべき

私どもの道があるわけであります。

 それでは、当日はこれで。どうもありがとうございました。