わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神の愛

2011-02-11 09:08:42 | 癒し
 宇宙の真理というのは、決して複雑なものではありません。縦横十字に

つらぬかれている神の愛を信じ、素直にその中に溶け込めばいいのです。

 しかし、肉体人間の想念が、中々光そのものである神の愛に溶け込ませ

にくくなっている。それだけ世の中が物中心になり、こころ=神様が忘れ

られた現代といえましょう。

 しかしながら、この世の中のすべての顕れは、実質、実体ではなく、

我々人間の心の奥に眠らされている、光としての真性をよびさますなら、

世の中は、そのまま真実霊界となり、神界となるのであります。

 宗教家の中には、説教はしてもあの世は信じないという人々が存在

しますが、人間の内外に、無限に働いてやまない神霊の援助、あるいは、

神仏の加護による永世へのみちびきを、心に感じることがなければ、

真に人をみちびき、人を救うということは不可能であります。

 私のいうそうした援助を、心に感ずるというのは単なる観念や、人間の

弱い憧れではありません。人を愛し人を導き、更に、救いにまで及ぶ

ためには、無私、無我の愛、言葉をかえていうなら、無限定の愛が土台と

ならなければなりません。

 どんなに愛に富み、誠実をつくしても、人が人を愛するという枠の中

だけで、愛や祈りの実践─無限の実践─は出来るものではない

のであります。そこに永遠者への眼というものを持たなければ、

とうてい、人の力だけで、いわゆる愛や救いは成し遂げられるものでは

ありません。もっと話を飛ばしていえば、本来人間を動かしている

力─行為の土台─は、この無限の愛から来るのであります。

 時代が移り、社会が発展を遂げる中で、人は、段々に、この自分を

つらぬき突き動かしている神の愛を疑い、遂に神は死んだと迄

言わしめたのでありましたが、神の愛、無限の愛というものは、そんな

浅い思想や、ちっぽけな否定で、消え去るものではないのであります。

 肉体を持っていますと、生活に追われ、人間関係に疲れ、神の愛

などというものに心を向けるには、あまりにも心がゆとりを持てなく

なってしまうのですが、たとえ、この身と心がどんな状態に

おちいっても、さん然とかがやきを失わず、海のように深いみ心を

持っているのが神の愛なのであります。

 人間が霊止であったところまで、私どもは帰らなければなりません。

 実際をいえば、本源の心は、あらわれようあらわれようとして、

私どもに合図を送っているのですけれど、永年の思いグセがそれを

押しとどめているといったかっこうなのであります。

 ここまできますと、神様と、人間の想念のいたちごっこに終るのでは

ないかとさえ思われるのですが、ここに至って真の宗教者、真の人間が、

朗らかなかがやく神の愛を呼び覚ます源を与えられていることに、

ほん然と気付くのであります。その源、その光とは、神への祈りに

他なりません。

 はじめは、やり場のないかなしみや、苦しみが、自己をとらえ、しばり、

むしろ不自由ななかで、神に向かっての叫びを挙げるのでありますが、

何にしろ、絶対の神に向けられる(人のまなざしが)ということが、

光の源である神にとっては、むしろ、その一人一人の運命と愛念を

おくりやすくなるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、苦労を、ただ

のがれたいともがき、神にむかって、恨みつらみをいう私ども人間の

計算では、計ることのできない神のみ心なのであります。

 いつも説いておりますように、神というものは、絶対の愛

でありまして、人間一人一人はその神の愛し児であり、神の

分生命(わけいのち)なのでありますが、その人の生れた環境、又、

育ち方、それぞれによりまして、天から与えられた賜物とは別に、

前に述べました、思いグセが、その人の個性の中に、一見深く喰い込んで、

中々これがやっかいなものなのであります。

 神様は、そうした人間一人一人のクセを全て御存知で、み心のなかに、

その人の天命が溶け入り溶け込み、遂に大神様のふところにいだかれて、

一体となるまでには、何をのぞかなければならないか、又、どこで、

いわゆる運命の修正をさせる為に、修行をさせ、人と会わせ、よろこびや、

かなしみを与えて、その霊なる命が成長してゆくように仕向けなければ

ならないかということなどを、全て御存知なのであります。

 しかも、人一人の天命が完うされるというのは、一生や二生のこと

ではなく、何百生をかけてのことであって、そこを全て御覧になった上

での愛念の発揮であり、それを助けるものが祈りであって、その祈りが

生きる為には、時々に、神に対して恨みの声を挙げることをも、御承知の

上でのことであることを知る必要があります。

 恨みや、そねみが、一時的にその人をとらえ、業想念がその人を

とりまいたとしても、永遠の真理の眼からみれば、それは、真の祈りに

昇華させ目覚めさせる為の第一段階であるのであります。

 そこで、実相は今私が申し上げたとおりなのですが、かっての古代の

人々のように、神様と二人というような純朴な信仰心、神への眼を、

科学が発達し、人間に与えられた理性を、過度に信頼し、遂に、

信仰するに迄至っている今日の社会に生きる人々に、こうした往相と還相

とをむずかしい言葉で説いたところで、それは、一つの哲学としてのみ

心に消化されるのが精一杯なのであります。

 元来、祈り心というものは、無邪気な単純な明るいものなのですが、

思想、哲学としてとらえられてしまっては、それは、あくまで人間の枠を

出ることは出来ません。

 そこで、こうした現代に生きる人々にも、やさしく真理の奥義を説き、

しかも、誰の心をも納得させて、本心開発へと導き、神の光の一筋

としての本体を自覚させる祈りが、私の提唱する“世界人類が平和で

ありますように”という言葉にはじまる祈り言なのであります。

 この祈りには、よこしまな私の思い、下手な思想などというものの

入るスキは全くありません。無私、無我にはじまり、宇宙神の奥の奥の

心へとみちびきとけ込み入らせる祈りなのであります。そうして、

没個性というのでは更になく、一人一人の人のこれらの何十生、何百生の

想いグセは思いグセのままで、ありのままに、祈ることを御心とした祈り

なのであります。

 私が、祈りは、天界へのきざはしなのだというのは、ここのところを

指すのでありまして、一人一人の親である神様は、その子どものそのまま、

あるがままを抱きとって、そうして魂を高め、次の高い世界へと高めて

下さるわけなのです。この叫びにはじまる神への心、神へのまなざしが、

やがて、いつの間にか光の一筋となり、神の助けによって、神界(縦)

からの光と、神の子人間(横)私達の光がさわりなく、交わります時、

縦横十字の神の絶対の愛がかがやくということなのであります。

        昭和61年7月7日      昌 久