わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神の子について(後篇)

2010-09-29 09:51:06 | 癒し
     (前日の続き)

 皆平等に神の子なんです。だから、神の子が神の子に呼び

かけるんですよ。例えどんなに腹立つ相手だって神の子

なんです。あなた方が道で会って、ああこの人は本当にいやだ

と思えば、ちょっと道をさけて会わないようにしようと思い

ますよ。だけども、そこを押してね、相手が知らん顔をしても

何をしても、やっぱり、おはようございますといって、それを

ずっと続けてごらんなさいな。やっぱりむこうもお早ようござ

いますと言うから。

 そこをね、いやな人だから挨拶するのをやめようとか、この

子はいじわるそうだからちょっとさけて通ろうとか、そう

思っちゃうとね、もういじわるなその子供しか見えてこない。

 その人しか見えてこない。それは、自分の中でかってに

その人の生命を判断して測ってやってることですよね。

 そんなもんじゃないんです。それがその人の本質だと

思ったら大間違いですね。


 それは、祈りによってそういう想いというのは消して

いただけるんだから、出たら、ああ消えてゆく姿だと思い

ながらね、非難されてもね、中傷されても意地悪されても、

明るい生命の源である神様が我々を受けとって下さるんだから

ということを信じて、信じ抜いてですね、私達は生きて

ゆかないと、とても自分を狭くしてゆくことになる。

 世界平和の祈りが、自分だけの平和の祈りになっちゃう。


 平和というのは、ただ単に事なかれ主義ではないんですよ。

 イエスが言ったでしょ、私がこの地上に来たのは、兄弟を

分かれさせて家を分かれさせて、争いを起こさせる為だ、

剣を投じる為に地上に来たんだという風なことを言います。

 何という言葉だと皆思いますよ。肉体もってる人はね。

 イエスがそんな人だったらついていけないと想いますよ。

でもそうじゃないんです。色んな事が起こるんです。本当に

真理に従おうとすれば。

 だけど、私達は神様に任せてるんだからね、お願いして

あるんだから、預けてるんだから、そこからの祈りであれば、

絶対に私達は間違った方向へ行きっこないんだ、そういう想い、

信仰、そういうものをもって進んでゆく時に、いつの間にか

分かれた家が握手するんですよ。気の合わなかった人と挨拶が

出来るようになるんですよ。一旦分かれさせるかもしれないよ。

 一旦辛いことをね、神様というのは降ろすかもしれないよ。

 だけども、決して分かれさせたままとか、喧嘩をさせたまま

とかね、そういうことは絶対にないんです。どこかで結んで下

さるんです。


 光を結ぶのが神様なんですからね。闇を降ろすのが神様じゃ

ないんだから。

 闇の問屋じゃないんです。光の問屋なんだよ。神様と

いうのはね。

 だから、そこに信をおかなきゃ何をおくんですか。そこへ

深く入ってかなきゃ何に入っていくんですか。そこを信じて

もらって、そうして道を説いてもらわないことには、神様の

光が途中で止まっちゃいますよ。


 信ずるということは、ただあなた任せじゃないんです。私の

信仰は駄目だけど、あの人の信仰はすごいから、あの人の

信仰の話を聞いたら少しは私の信仰がって、そりゃあ確かに

そうだけど、その人にいつまでも引っぱってもらってる信仰じゃ

ないんですよ。その人に開いてもらって、そして、自分でも

驚くような力が出て、神様ありがとうございますと言えた時に、

あなた方が輝くんだよね。

 その辺のことをね、きっちりと腹の中に入れて、そうして、

五井先生のことも神様のことも、向こうの世界のこともこの世の

ことも、色んなことを思って、説いて、祈ってやっていかなきゃ。

 我々の中の本心開いて下さるのは神様なんです。我々じゃ

ないんです。だから、任せるというのは、私がさっきあなた任せ

と言ったのはね、人に頼っちゃいかんということです。人に頼る

前に神様に頼らなきゃ。


 人というものはね、自分も含めて我がありますよ。想いがあり

ますよ。都合の悪いことはやっぱり避けて通りたい想いがある。

 皆そうでしょう。だから、そういう人を頼んだって、頼みきれる

もんじゃないんです。皆弱いんだから。信頼関係をこわせというん

じゃないんですよ。皆合い和して生きていかなきゃならないの。

 生命を尊敬していかなきゃならないの。けれども、そういう意味

じゃない。


 やはり、朽ちることのない生命というのは神様にしかない。裏切ら

れない愛というものも神様にしかないんです。我々はそこから愛情を

もらってる、光をもらってる訳でしょ。

 だから、そこへ帰っていかなきゃどうするんですか。そこへ信を

おいて初めて深く祈ることが出来る。そこを基盤にしなかったら、

誰々先生の言うことを基盤にしたら駄目なんです。

 私だって、私が喋ってると思ってない。私は場所なんだと

さっきも言ったけども、本当に私が喋ってるんじゃないんです。

 神様の流れのその光が来て、奥深いところから光が来て、私が

喋らせてもらってるんですよ。五井先生が偉いとか何とかと

言うけれども、そうじゃないんですよ。

 本当は、大きな深い働きというものは、底知れない神様の愛と

祈りと調和と、そういう皆を平等に愛する心、そこから出るんです。

 みんなその宝を持ってるんです。だからしっかりして下さい。

                     (了)