わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

光満ちた世界(前篇)

2010-09-16 10:27:07 | 癒し
 こうやって壇上から見ていますと、本当に光が満ちて

おりましてね。皆さんの体からも心からも、それから、

気持ちの流れからもね、本心からも、ありとあらゆる

ところから光が出ていて、そうして、お互いの体とか

心だけじゃなくて、光がお互いに呼び合って、大光明に

なって内も外も浄めてゆく。そういう情景が私の方から

見えます。


 本当は、人間のその見える見えないということなどは

些細なことでしてね、ささやかなことで。

 光というものはとに角あるんだということ、光の命に

よって我々は生きているんだということ、そのことが

一番大事なことなのであります。


 光の命というのは何かというと、これは神様の命だ。

 神様というのは何かというと、これは愛と平和と

ゆるしの源だ。愛と平和とゆるしというものが我々の

生命の根幹にもなっているし、大宇宙の秩序にもなって

いるし、もう話を大きく深くしていったら、神様という

方は、この三つのものを現わす為のものにすぎないと。

 大愛という大河の流れの中にいらっしゃる、それが

神様だということが言えるんでありますが、しかし、

そこまで話を大きくしなくても、私達の中にこの光が

交通しておりましてね、交流して我々は実は生きてゆく

ことが出来る。


 光というものを見えなくても、例えば、ほほえみですね、

笑顔によって心をなごませることができる、なごむ心が

あるということを申しましたけれども、その笑顔の中に

やっぱり光が宿るんです。

 ろうそくの光がポーっとともるとそこが明るんで、

そうして、夕暮れ時や夜など、他にあかりがありませんと、

そこにあかりが集中しますね。そして、お盆に、宗派に

よってはね、浄土真宗なんかだと、お迎えの桃燈があり、

そのあかりを頼りにして帰ってくるという信仰がありますね。

 そういうろうそくの一本のあかりというものが、その中に

何が入っているかというと、皆の愛念ですね。迎えよう

迎えたい、一緒になりたい一体になりたいと。

 私達は、生きている人も死んでいる人もそうですけれども、

この人と一体になりたい、話がしたい、仲良くなりたい、

喧嘩をしたくない、色々な想いでもって、相手と関係を

結んでゆく。

 相手と仲良くなりたいということで笑顔を送る時に、

その中に光が入るんですね。祈りが入ってゆくんですね。

 その時に、別に南無阿弥陀仏と言わなくとも、祈り言を

唱えなくとも。だから、笑顔というものはすごいものです。

 笑顔は本当に光を生み出すものですね。


 本当に信心深いということはどういうことかとよく

聞かれますけれど、本当に信心深いということは、ただ

ひたすら神様と一体になっていて、そして、神がかりになる

というんじゃなく、ちゃんと自分を持ち、その上で何か

ひたすらに打ち込んで、喜んで、動いている。語っている、

働いている。

 その時に、信仰というか信心というか、そういうものが

動いてゆく。と私は思います。そのあたりが、我々の肉体を

本当に動かしてゆくもんである。


 ところが何か信仰といいますとね、遠く離れたもののような、

あるいは、神様や仏様というものも遠く離れたもののような、

光明とか何とかいいますけれども、それも何か自分からは遠く

離れたもののような、そういう気持ちに皆なりがち

ですけれども、そうではないんですね。

 あなた方も一人一人が皆光なんです。そうして、その光と

いうのは、目には見えなくても、例えば、笑顔で人に接する

時に、自分の中のもともともたされている、いただいている

生命というものの中から光が奥深く出てまいりまして、その

光がパァーっとあたりを照らしてゆく。

 だから、よく歩くだけでお浄めになるということを申し

ましたが、実際そうなんです。

 自分は何も思っていない、お浄めするとか何とかいっさい

考えないで、動いてゆく、歩いてゆく。ただ無心に歩いてる。

 何にも考えないでぼんやり歩いている。歩いているんだ

けれども、それだけであたりが浄まってゆく。本当の人間

というものはそういうもんですね。


 神様の愛というのはそういうもんですね。例えば、太陽と

いうものは、誰を照らして誰を照らさないということは

ありません。又、この人は優しい人だからここには雨を

降らせて、この人はいじわるだからここには日照りでと、

そういうこともありません。

 皆平等に、神様は雨を降らしたり照らしたり色々します。

 あるいは、星の光などというものもずい分人間の心の

慰めになります。星の光や日の光をうたった詩だとか言葉

だとかいうものも沢山ありますね。

 そういうものを通して我々の心が慰められるのは、私も

うたをよみますけれども、詩人や歌人という人々が神様の心

というものを感受いたしまして、感じとりましてね、そうして、

その心をいただいてうたや詩にする。

 そうすると、それがひびきになって我々の中へ帰ってきて、

そして、我々の中の生命の火をかき立てて、往相還相じゃ

ありませんけれども、我々の中の光がまわりまわってですね、

あたりを浄めてゆくんですね。


 そういう風に考えますとね、ここだけが光に満ちているとか、

あそこは光に満ちているとか、ここは光がないとか、というのは

これはやはり人間の想いなんですね。

 人間の想いというものは、実にさまざまな世界をつくります。

 例えば、この人と仲良くなりたい、この人といつまでも

つき合いたいと思うと、やわらぎの光が出ますね。そして、

争いたくないというただ単なる平和主義者ではなくて、本当に

調和をして生きてゆく。その為の祈りによって、祈りの光が

出るから、やわらぎがまことになっていって、なぐさめに

なっていって、本物の光が出る。

 だけども、別のことも言える訳です。我をもってる人間の

側から言えば、こんな人とは仲良くなりたくないとかね、

ありますよね。あいつの顔なんか見たくないとかね。

 ありますでしょ。そういうことで分けてしまうと、そこに

たちまち闇が出てきますね。そして、何かいやな空気に

なってまいりますね。それは人間の想いがつくり出す世界。

 不思議なことに、やわらぎの世界も、それから、いやな

空気の世界も不安に満ちた世界も、皆これはどこから出て

くるかというと、これは人間の想いから出てくる。


 実に、人間というものはさまざまなものをつくり出す

ことが出来る存在。ところがこれは皆空なんです。本当の

真実の姿のものではございません。


 本当の真実の姿というのは、それでは何かといえば、

それはどんな時にも動かされない、どんな時にも迷う

ことがない、疑う余地のない神様の愛の光というもの。

 例えば、どんな業の中にあっても、その業をゆるやかに、

愛情をもって消してゆきながら、ついに、その業の闇をも

光に変えてゆく、そういう大愛。それが真実の光の世界で

あります。

 で、この真実の光の世界というものを、実は私達は

それぞれの心の中にもっておりまして、本当はこれが

原動力になって私達が生きてゆくことが出来るということで

あります。

 ですから、そこへずっと気持ちを集中し心を集中し、

祈りを集中してゆけばですね、いつも私が申しましたけど、

一分キリスト一分釈迦一分老子になることができる。

 老子が無為と申しましたのは、何もしないということでは

ありません。あるがままの自己というものをほがらかに

認めて、そうして、そのほがらかな自己というものをさらに

ポーンと投げ出して、笑顔でもってそれを見つめていると、

そこから光というものが見えてくる。

 光以外に見えてくるものはない。そういう世界であります。

 そういう世界に本当は人間は遊ぶことができる。


 荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)というのがございます。

 逍遙遊篇というのは何かというと、ご存じの方もあるかも

わかりませんけれども、つまり、大鳥鳳凰というのがあって、

鳳凰(ほうおう)のあの大きな鳥が天空をかけ巡ってゆく、その

姿の壮大なこと、それを最初にうたっております。

 そうして、鳳凰というのは元を正せば、北の方に大きな海が

あって、そこにこんという大きな魚がいて、その大きなこんと

いう魚が鳳凰になったんだという風に、冒頭に書いてあります。

              (以下翌日に続く)