わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

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神の子について(前篇)

2010-09-27 10:52:37 | 癒し
 神様というもの、それから神の子というもの、これはもう

切り離せない。聖書やお経なんか読んでも、仏子とか神の子

とか書いてあって、何となく分かりにくいけれども、

くだいて言えば、皆平等に誰一人として違うということなく、

神様の子供なんだということですね。

 その神様の子供というのはどういうことかといいますと、

神様から流れてくる絶えることのない生き通しの生命という

ものを受けて、働く生命なんだということですね。


 神の子というものはね、皆が神の子になっちゃえば、

迷いがないんですよ。迷う必要がないんです。だけども迷い

ますね。世の中に生きてる以上はね。

 ただ何度も言うようだけれども、肉体を持ってる

我々自身を我々だと思ってしまうと、迷うんですよ。だから、

迷ったり悩んだり悲しんだり寂しくなったり、色んな事が

ありますよね。あるけれども、しかし、それが自分だと思う

心をちょっと横に置いて、本当の自分はどこだろうと訪ね

求める。

 それが祈るということなんですけれども、訪ね求めてずっと

旅をして行くと、そこに神様がいらして、そうして、神様に

愛されてる子供である自分というものがでてくる。

 そして、その喜びで一杯になり祈りで一杯になってる時に、

自分というものが消えて、光だけになって、そこにただある。

 あるいは、自分というものをなくして、無になって、一所

懸命何かやっている。そこに神様の生命が深く働いてゆく。

 その時、皆神の子なんです。


 みんな、どこどこの出身とか、何歳であるとか、経験が

どうであるとかいいますね。いいますけれども、そういう

ものは全然神様は頓着しない。みんな自分の流れから出てった

子供たちでしょ。みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人

ですよね。皆そうです。そこを間違うと大変です。

 あの人は経験が浅いから、そんなことはとても出来ない

だろうとかね。誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。

 そんなことは決めちゃあいけないんですよ。流れという

ものがあるでしょ。気の流れというものがね。

 その気の流れというものはね、時に乱暴なことしますよ。

 この人にやらせときゃ間違いないというものをね、何を

まかり間違ったか、全然無神経な無責任なね、一見

そう見える人に任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃう

とかねえ、仕事が滅茶苦茶になっちゃったとか、ブツブツ

言うような事が出てきたりしますよ。本当はああいう人に

任せときゃとか思いますよ。


 ところが、そういう事を通して神様というのは、色んな

難しい人間の複雑な気持ちの有様だとか、それから人との

付き合い方とかね、いわゆる人生の苦労というものを味あわ

せる。この世に生きてる限りはやっぱりどこか皆人生苦労

しますでしょう。又、苦労しなきゃ駄目なんだよ。苦労

しないとねえやっぱり。

 すっといって良かった良かった目出度し目出度しだと、

何の深い喜びも湧いてこないということになりましてね。

 あるいは、色々悩みを持って来られたってね、その経験が

なかったら分からないということになりましてねえ。

 この何とかという本の中に五井先生がこう書いてますから、

それ読んで下さい、私は分かりませんなんてことになる。

 それじゃあ困るんですよ。確かにね、来られてどうしましょう

と言われた時に、それは五井先生と呼んで下さるのは

いいけどね、その人は五井先生よりも、あなた方の智恵を

借りたい。まず目の前にいる生きているあなた方のそういう

言葉を通して、何かすがりたい訳でしょ。

 ところがここに書いてありますって、もうオロオロ

しちゃって本持ってくる。持って来て下すって構いません。

 その本から光が出てるんだからそれでいいんだけど、

やっぱりあなた方の言葉で、あなた方の流れで、あなた方が

こうと思うことを自信をもって言うというところまで、自分を

高めていってはじめてね、言葉も生きるし、光も満ちてくる。


 それが出来なきゃ駄目なんです。講師とかね、それから、

お浄めをする人たちというのはね、我々ずれがというのは困る。

 その我々ずれを動かしてるのは神様なんですよね。我々ずれ

がと言っちゃうと、神様ずれがになっちゃう。神様をね、低くみる

ことになっちゃうんです。

 しかし、そうじゃない。やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、

一所懸命やればね、そこへ神様の光がいく。そして、ああ、

あの人はあの先生は親身になって私のことを考えてくれた、

何だかこう生きる勇気が湧いてきたとか、あそこへ悩みを

置いてきてよかったとか。あとはお任せですよ。そこの

ところが皆もう一つ自信がもてない。


 私というものに把われたら、それはそうなりますよ。絶対に

そうなる。私はね、把われるものがなかったね。おもいは神様

だけでしょ。神様がいいようにして下さるんだから、この

世の中で皆が悪いと思うことでも、ああと思うようなことでも、

あっこれはと思ったら、やっぱりその通りにしましたよ。

 それは色んな相談が来るから、ああいやだなと思うこと

ありますよ。思うけどすっとそれが短く消える。何故かというと、

私がやるんじゃないと思うもの。いつも言うように、私は場所

だと思うのね。だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ

ないんです。私は場所でカラッポになってて、そこへ空海さん

だの親鸞さんだの法然さんだのキリストだの、皆降りて

きて下さって、そこで私が、その人たちに智恵の言葉を

語るんですよね。私は語らせてもらってるんですよね。


 私は、天の私と地の私と合体した時にとよくいいました

けれど、本当の自分自身というものを見たら、これはもう安心

するより他しようがないんです。輝いてるから。

 皆輝いてますよ。輝いてますよといって皆にそれを見せて

あげたいけれども、まだそこまで時が来てなかったから。

 カラッポになってニコニコしてる五井先生というものを

通して、皆ここへゆけるんだな、ここを通して神様のみ許に

行けるんだな、そばに行けるんだな、一緒なんだなと

いうことを勉強してほしい。そう思いましたよね。

 みんな私が引き連れて引き受けて、自信がなかったら

出来ませんよ。神の子であるというそういう自信がなきゃあ、

そんなことは喋べれない。五井先生そんなこと言ったってと

思う。そういう想いも一杯受ける。だけども、私は間違いの

ない神様の愛というものを知ってしまってるから、その中に

いるから、それは皆が行ける場所だから、だから、自信を

もって、皆の中に神様の流れが入ってるんだよ、皆一人一人が

平等に神様の子供なんだよ、あなた方は光なんだよ、という

ことをずっと言ってきたし、今も言ってるし、これからも

言っていくんですけどね。


 でも、私がというのを消したら気持ちがいいんですよ。もう

大安心ですねえ。神様しか残らないでしょ。もう委ねちゃったら、

何と言ったらいいかしら、非常に生き生きしてくるのね。

 自分が疲れていても、別の体力がふっとちがう所から出て

くるんです。

 私がお浄めしますでしょ、してましたね。ああいうお浄めでも、

我とか業とかいっぱい来るんだから、肉体人間だったらとっくに

私は死んでますよね。あの時に私はそこにいないんですよ。

 あの時神様の心の中にすっと入っちゃってるから。だから、

私がやってるお浄めじゃないでしょ。神様の神界の流れの方から

流れてくる光ですよね。

           (以下翌日に続く)