僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

600通のラブレター

2011-05-11 16:08:11 | テレビ番組
5月5日放送の奇跡体験!アンビリーバボーを観た。
山形市在住の斉藤志直さんと妻るりさんとの純粋な愛がテーマだった。
彼自身、体験を「600通のラブレター」という本として上梓している。

14歳の時、志直さんは、中2コースの文通欄をとおして高知県のるりさんと文通を始める。

高校2年の時、志直さんはアルバイトをして貯めたお金でるりさんに会いに行く。
4日間のデートであったが、志直さんにとっては夢のような毎日だった。二人は次第に惹かれあっていく。


けれどるりさんが徳島の短大に進学し、志直さんが高校を留年した頃から二人の間の歯車が狂い始める。
「今の志直君の心がつかめないし、わかりません。今の志直君は雲のようです。」
そして文通も途絶えがちになり、るりさんはダンスパーティで知り合った男性のことを手紙で知らせるのであった。
「るり、俺はるりの手紙をどのように受け取ったらいいのだろうか?ずいぶん長い間待っていた手紙なのに俺にはずいぶん悲しいものになってしまった」
「二人の心がずんずん離れていくのをなぜ見ていられるでしょう。愛されなくてもいいから愛したいのです。いつか偶然お会いすることもあるでしょう。その日までお元気でありますように。さようなら。」
文通で育まれた二人の恋は5年目で終わりを迎えた。



けれど志直さんが大学に合格した後、辛抱たまらず徳島へと旅立つのだった。
不慮の事故で船が3時間遅れたがるりさんはしっかり待っていた。
「君と会いたい。肩を寄せて歩いている君と僕。そんなことを夢見ている。」
二人の関係は、友達のような恋人から、心から愛する人へと変わっていった。

けれどるりさんの母は長男で山形に住む志直さんとの結婚を許す気はなかった。
るりさんには次々と見合いの話が持ち込まれた。しかも県庁職員や教師など将来性のある相手が多く、大学生の志直さんは気後れするばかりだった。そんな状況に耐え切れなくなった志直さんはついに一つの決断をする。

「君とはやはり本当に別れようと思います。許してくれとも分かってくれとも言いません。僕はこれで完全に心を閉じることにしました。」



3年の月日が流れ、1975年志直さんは大学を卒業し、地元の銀行に就職。朝から晩まで必死に働く日々を送っていた。
そんな時・・・るりさんが突然訪ねてきた。
北海道旅行の帰りに山形に立ち寄ったが、帰ったらお見合いをして結婚する予定だと言う。
翌朝、るりさんと別れた後、走馬灯のようにるりさんとの事が思い出され、志直さんは駅までるりさんを追いかけていき、プロポーズしたのであった。
その後、強硬に反対するるりさんの母を二人で説得、2週間後結婚の許しを貰った。
そして1976年3月二人は結婚式を挙げた。


結婚から28年後、るりさんは体調をくずし、病院で検査の末ガンが見つかった。一時快復し退院したがまもなく再発。すでに体中ガンに蝕まれていた。

2003年11月8日朝、るりさんは眠るように息をひきとった。


1000キロの距離を乗り越え、交わされた600通もの手紙。
その中で二人は出会い、別れ、愛し合った。
11年の時を経て、二人が結ばれたとき手紙はもういらなかった。




やや志直さんは優柔不断なところがあって少々やきもきしたが、中学生の頃からの文通をきっかけに、様々な試練にも打ち勝って結婚できたのは本当にすばらしいことだと思った。
何十年も同じ人を慕い続けることはそんなに生やさしいことではないだろう。

私など、高校時代文通をした女性がいたが、たった10通で終焉を迎えた。
続けること、愛し愛されることの難しさをいま痛切に思う。