僕の感性

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上杉鷹山(治憲)の改革

2008-02-03 22:25:44 | Weblog
 上杉鷹山は宝暦元年(1751)、日向高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子になりました。
 上杉家は上杉景勝のとき会津の所領高120万石でしたが、関が原の戦いで石田光成に与したため戦い後、米沢30万石に減封左遷の処分を受けました。さらに三代藩主綱勝が、跡継ぎを定める前に急死したため、半分の15万石に減らされてしまいました。
 にもかかわらず、上杉家は藩祖景勝以来、伝統として、どんなに領地が減っても、家臣団の整理を一切行いませんでした。享保十年(1725)になっても変わらず、5千人の人数を確保しており、給与は12万9500石と記録されています。収入が15万石しかないのに家臣の給与が約13万石も占めていたのです。
 鷹山が家を継いだのは、明和四年(1767)で、彼は17歳でした。彼は、寒冷地に適した漆や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励しました。漆からは塗料や蝋をとり、楮からは紙を漉き出し、桑からは生糸を織り出して、絹織物に仕上げるのです。さらに紅花は染料として高く売れるのでした。
 やがて鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中から、自ら荒地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきました。家臣の妻子も養蚕や機織に携わり、働く事の喜びを覚えたのです。
 天明二年(1782)長雨が春から始まって、冷夏となり、翌三年も同じような天候が続き、米作は平年の2割程度に落ち込みました。そこでも鷹山が陣頭指揮をとり、藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせました。米沢藩では、富裕な者が、貧しい者を競って助け、扶助、互助の甲斐あって餓死者は一人も出ませんでした。
 他にも、世襲的な代官制度を撤廃し、すぐれた人物を農民の指導に当てました。また年配者を敬い、90歳以上の者に今で言う年金を与え、70歳以上の者に鯉や錦鯉を飼う仕事を与え、老人をいたわる孝子を褒章するとともに、自ら敬老を実践するのでした。
 文政五年、鷹山が七十二歳で亡くなった時、藩内あげてその父母を失うがごとく、その悲嘆は言語に絶しました。埋葬の当日、数万の人々が老人や幼児を携え、沿道に平伏してひつぎを拝み、嗚咽、号泣の声は山野に満ちていました。