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うさたろうの 気儘なフランス散歩

2年の予定が丸7年。赤貧学生としてのフランス生活にも終止符。約4年8ヶ月続けてきた日記、改め、気儘なフランス散歩…

震災直後の週末に

2011-03-16 21:21:54 | 自分のこと
このブログ、そもそもはフランス生活の中で自分の日常を綴ろう、と始めたものだったので、日本に帰国してからも、なるべく我が家の事情などは書かないようにしてきました。
が。
今日は少しばかり原則から外れます。…よろしかったら、おつきあいください。







そう。
11日、大地震に見舞われた日に、私は東京の隣県にある親元に行く予定でした。
しかし。
東京下町のアパートを出たところで、地震が発生。
余儀なく戻りましたが、このタイミングで本当に運が良かった!と思います。


一晩は、自分の住まいで待機することができ、翌朝未明に再び出発。
家に帰れず疲れきったサラリーマン・OLなどでラッシュ状態の地下鉄を何とか乗り継ぎ、私鉄に乗って親元に着いたのは朝の7時半でした。
…普段なら1時間半ばかりで到着するはずが、まるまる2時間半。
それでも、とってもラッキーなことだったと思っています。




しかし。
なぜこの状況で、そうまでして親元に帰らなければならなかったのか、というと。

実はその日、父の遺骨などを持って、母と一緒に博多まで行くことになっていたからなのです。



翌日曜日13日が父の四十九日にあたり、故郷の博多で親戚も集め、先祖のお墓に納骨する予定にしていました。




そう。
実は私の父、新年を超えた頃から容態が悪化し、家族が覚悟していたよりは早かった1月の下旬に、入院先の病院で母が見守る中、静かに息を引き取りました。
…私が珍しく風邪で寝込み、丁度治りかけていた頃です。






そして。
死亡通知は、遺言通り、知人・友人、親戚にも一切せず。
家族葬を、姉夫婦の仕事の休日に母と4人でヒッソリ行いました。



…当初は、母が東京に購入していたお墓に埋葬するつもりでしたが。
いざとなると、母は、ヤッパリ故郷が大好きだった父を先祖のお墓に入れてあげたい、という思いに至り。
結局、四十九日にあわせて、親戚などにも声をかけ、博多で納骨を行うことにしたのでした。



ところで。
地方によって違うようですが。
父の葬儀を行ったところでは、遺骨全てが大きな瀬戸物の骨壷に収められました。

これがまた、結構重くて持ちづらいのですよね。
結局、大きな風呂敷に包み、持ち運びのためにスポーツバッグに入れ…。




ですから、背中には山歩き用の大きなリュックに、遺影や自分の喪服など。
片腕には、チャックの閉まらない、骨壷と位牌の入ったスポーツバック。
それを、あの状況で羽田に向かうことになったわけです。



通常なら、母の家から羽田空港まで所要時間2時間ばかり。

しかし地震の翌日。
交通の混乱で、さまざまなルートを使った結果、空港まで4時間半もかかり。
最終的には、空港内を走って予定の飛行機に乗った有様でした。

いずれにしても、乗れて本当にヨカッタ!






そして。
無事、暖かい穏やかな日曜日に親戚ともども納骨を済ませ、母と帰京したのは、一昨日14日・月曜日のことです。




これまた、最寄の私鉄がストップしており、リムジンバスで途中まで来たのはよかったけれど、タクシーは長蛇の列&来ない…。


そこから家まで、疲れきっていた母には申し訳なかったけれど、頑丈な私が母の荷物を引き受け、約1時間半かけて夕闇の中、二人で歩いて帰ってきました。

…家にやっとこさ着いたのは、19時半頃。





震災直後ではあったけど、なんとか父の納骨を博多で予定通りすませることができたことには深く感謝。

そして。
最後までしんどかった帰路で、お腹もペコペコ。
自宅でおつまみなしでも飲んだビールの美味しさを一際、感じいった夜でした。。。

突然ですが。

2009-09-16 04:04:23 | 自分のこと
これまで、奇特にこのブログを訪問してくださった方へ



唐突ですが。
…ブログ名も変更させていただきました。





実は。
後数十日で、日本に引揚げ帰国をいたします。
これまで、本当にいろいろありがとうございました、ペコリ






…未だ研究途中で思い残すことはありますが、当初2年の留学予定が、いつのまにか丸7年を越し。
しかし、自己評価ではありますが、内容的にはそれなりに満足をしています。



帰国ギリギリまで、ブログを書き続けようか。
或いは、帰国話も認め、東京でもこのそのまま続けようか。

などと。
いろいろ考えていましたが、昨日、またパソコンが突然深刻な不具合を起こし。
(この場に及んで、こちらでパソコンを買わなければいけないか?とまで考えています、涙)

これから暫く更新自体も思うように行かないのではないか、ということで。
とりあえず、区切りとしてご挨拶することにいたしました。





ホント、一般的なイメージとは程遠い、只管地味~なフランス生活の独り言を書き連ねてきました。
当然面白くもないでしょうから(笑)、読者数も伸びずコメントも殆どなく



それでも、こんなブログのお陰で、私自身としては精神的にも大変助けられたし、素敵なかけがえのない出会いを幾つもいただくことができました。

…個々のお礼は、またゆっくり書くことができれば、と思っていますが。
(これからも「うさたろう」のハンドルネームで、遊びに行かせていただきます、ペコリ)




そして。
タイトルを変えたことでもおわかりいただけると思いますが、決してやめてしまうつもりはありません。
帰国前でもまだ十分日数があるので、小旅行や例の一人ピクニックに行った時に更新したいと思っているし。
帰国した後には、研究会参加などの折に渡仏する機会があれば、こちらのブログにひっそりと書き足していこうと思っています。




ということで。
今日はとりあえず、区切りのご挨拶…。






で、あはっ。
常に、下手なワンパターン写真ばかりでしたが、ポリポリ。
区切りの日の今日は、やっぱり、大~好きなエッフェル塔と、我が心の故郷=パリの浅草寺ことノートルダム寺院の写真(週末撮った)を載せて、締め括ることにします。


↓下から見上げたエッフェル塔。


↓いつも自転車を止める辺りからのエッフェル塔。



↓バラ窓だけでなく、素晴らしいノートルダムのステンドグラス。


↓いつ見ても美しく、懐かしい風景…。



何かあれば、どうぞメールでもくださいませ。
どうもありがとうございました、今後ともボチボチよろしくお願いいたします、

悩みをポロリ

2007-08-04 05:24:37 | 自分のこと
参っている場合じゃないのですが。

古いフランス製パソコンが立ち上がらなくなりました。(涙)

…昨晩、ディスクを綺麗、にしていたところ。
ふと気がつくと、画面が真っ黒。

しかも。何をしても、電源が切れません。
仕方なく、AC電源を切り、バッテリーを取って、強制的にオフ。
そして。
暫く経った後に、恐る恐る電源を入れてみましたが。

はぁ~っ。
何やら、英語の文字は出るのですが。
そこに指示されているFonctionキーを押せども何も起こらず。

そう。
何をしても何も起こらず…。
仕方なく、電源を切りましたが。


これって。
もう本当にだめなのかしら?寿命ってこと?

元々古いパソコンを、全くの初期状態でもらい、高いXPのOSをわざわざ買ってインストール。
それでも、フランス語のソフトとは相性がいいし(この日本パソコンは全然ダメ!ものすごく不便です…そういう意味では、昔の日本製のほうがまだ良かった)、パワーポイントがストレスなく使えるので、ここぞというときに大事に使っていたのだけれど。

論文を書き始めようとした矢先に、この不運。
え~ん。
だって。
折角買った、フランス語綴り間違い訂正ソフト。
この日本製パソコンでは全く機能しないんですもの。(←全部間違いになってしまう!)

やれやれ。
…どうするのがいいのかしらん。
初期化を試してみるべきかしら?って。
やり方なんて、とうの昔にすっかり忘れているんですよね。。。。。






そんな悩みプラス。
論文を出した後の身の振り方が現実に迫ってきて、悩んでいます。
…本当は、そんなことより目先の問題、論文をきちんと書き上げる、ってことが今の私には何よりの重要課題、なんですが。

そう。
ブログにはまだ書いていませんでしたが。
9月に論文を提出、10月にその口頭試問を受けた後、結果はどうあれ、これ以上滞在を続けられる資金がないので、年末には日本に帰国をして就職、という覚悟をしています。

が。
実は。
もし、修士をクリアできたら、もう1年だけでも、博士課程に登録したいという、我儘がムクムクと湧いてきて。
こちらで仕事を探そうか、という気になってきたわけです。



ただ。
フランスの滞在許可が、学生の身分としてしか認められないので。
仕事を探すにも、かなり困難なのですよ。
ある意味、ワーホリだったら、もっと簡単なのにね。

企業側は、使い捨てならOK、ってことなんでしょうか。
変な学生に居座られても困る、ってことなのかもしれません。



まぁね、考えてみれば早5年。
これも潮時かなぁ、と思いつつ。(最初は2年滞在のつもり、でしたから。)
1年だけでも何とかならないか(←私の担当教授は、フランスにいない限り、博士課程への登録を認めてくれないのです。フツー、博士課程は必修授業もないから、他の国でもOKなのですけど、ね。)というのが、我儘でありまして。

それに。
今の私の状況で、果たして日本に帰ったからって、仕事がみつかるか?
という不安もかなり大きいのです。
こちらで、就職したほうがいいのでは?と。思ったりも。

勿論。採用さえしてくれたら、絶対後悔はさせない働きをする自信は人一倍あるのだけれど。
このブランクと、その関連での実年齢を、企業はどう見るのか?

でも。
いずれにしても日本にさえ帰れば、暫く仕事がみつからなくても、少なくとも屋根のある家に住め、この歳で恥ずかしいにしても、両親に甘えてご飯は食べさせてもらえる。

…帰ったほうがいいのかもしれません。



そんな迷いを持ってこの数ヶ月。
…実は、たまたま縁があったところから、働いてみないかというオファーを受けました。
但し。
学生の身分のまま。(←こちらで、外国人を雇うのはかなり面倒なのです。)

ハイハイ、それはOKですよん♪
私としても、今の担当教授の下で大学院を続けたいのが本音。



でも。
正直言って、条件を聞いて、落胆しました。
いえね、勿論、最初は研修生としてだし、かなり低賃金なのは覚悟していたけれど。
…本当に、お小遣い程度。
働く条件は、悪いのにね。
(↑毎日2回、出社することになるのです。=朝と夜。
午後は大学に行かれる?
でも。ウィークデーはいつも夜、仕事です。。。)



…たった、17平方メートルという小さな汚いステュディオなのに、家賃が高いところに住んでいる私。(←外国人+学生。という二重苦で、仕方のないことでもあります)。
かといって、今さら越せない。(これまた敷金とかいるし。みつけるのも、引越しするのも至難)
従って。
その家賃、そして、電気代、保険、電話代、など、毎月どうしても必要な金額を引くと。
なんと、1ヶ月で2万円も残らない計算になります。
これで、生きていけるのかしらん?????食べていけるの?????

勿論、今はすっかり赤貧に慣れていて、贅沢なんて全くしようと思わないけれど。
最低の食べ物が食べられるのかしら?すらが心配なのです。

日本でだったら何とかなるかもなぁと思うけれど。
所詮、一人ぼっちの外国くらし。
いざというときのお金、飛行機代とか、だけでなく、ちょっとした気晴らしのお金も置いておきたいんだけどなぁ…。


まぁね、12月までが試用期間で、その後、正式に採用するかどうか、って決めるらしいから。
そんなに深刻になる必要もないのかもしれないけれど。



年老いた両親が、今の論文すら捨てて、一刻も早く帰国してほしい。と思っているのに反して、そんな選択をしていいのだろうか。
それに。
こちらで仕事をしたこ経験が、今後何になるのか…自分でもよくわからないので。不安が募ります。

と。言いながらも。
実は、やってみようか、という方向に傾きつつあります。(月曜日に返事をする約束。)
…結局12月に首を切られるかもしれないし。
フランス人がどうやって働いているか目の当たりにする又とないチャンスかもしれません。



しっかし。
…自営業・自由業の人はともかく、会社勤めの同期の出世頭は年収1200万円とか、ゆうに超えているらしいのに。
年間200万円にも満たないだろう私って何?(←フルタイムに働いて、税引き前、でです。)

能力の違いとは思いたくないのが本音です。

一体、でも、どこでこんなに差がついちゃったんだろ?

人と比べても何もならないのは分かっちゃいるけど、ね。
…現実は厳しいです。。。。。



一言、愚痴。
オヤヂOLマッシグラで
「江戸っ子は、宵っ越しの金は持たねぇ!」と嘯いて、高給だったサラリーを全額好きなことに消費、贅沢三昧していた数年前が懐かしいです。
そんな時代が、果たしてもう一度私にやってくるのかぁっ?????
(↑ムリ、ありえなぁ~い!ま。でもそれでも私は幸せです今の勉強さえ続けられれば。って。それって、ちょっといい子過ぎる答えかな?あはっ)

特別な日

2007-02-01 07:33:43 | 自分のこと
今日はこれまで生きてきた人生の中で、何1つ悲しい事件がない日々の中で、最も寂しい気持ちになった日じゃないかしらん

そして。
これからの人生でも、2度と味わうことのない寂寥の念を味わった日、ということに意地でもしたいもの、です。

そ。
実は今日、私のお誕生日。
確かに、大手を振って祝えるようなめでたい歳はとっくに越えているけれど、私はお誕生日が大好き
というか、お誕生日という日はやっぱり特別な日だなぁ…と思うので、とても大切にしたいのです。

だから。
人が、「そんな歳になって、全くめでたくないよ」と言っても、お誕生日は絶対にささやかでもお祝いしたい。
勿論、だから、お友達のときも心からお祝いしたいと思っています。



なのに。
今日は見事に一人ぽっちの夜、でした…。

昨年と、渡仏した4年前も、日本に一時帰国していました。
例え友達に連絡しないときでも、家族が傍にいた…。

一昨年前と3年前は?
そう。
前住んでいた街には、今より友達が多かったこともあって、仲の良い友達にお祝いしてもらったっけ。


だから。
本当に長い人生の中で、初めて一人ぽっちのお誕生日です。

確かにね、流石、母親、です。
忘れずに電話をかけてきてくれました。
それに。
数人の友達は、メールをくれたし

ただね、傍にいる人が誰もいない…。
寂しいモンです、ほんと。
泣き言はいいたくないけれど、本当にメゲそうになります



ん、でも、ご心配には及びません。
どっちにしても明日までの課題が終わってなかったし、寂しさには、悲しいかな、流石にだいぶ慣れてきているし、自分のコントロールも上手になってきているから、全然平気。

そ。
このブログへの訪問者数が、そんな私の寂しさを見越したのか、これまでで一番多かったんじゃないかなぁ?と思うような状態だったし。
きっと、皆お祝いに駆けつけてくれたんだわ、と、のー天気なウサは思っているのであります。


ま。
というわけで。
今日は、多分もっと他に書くべきことがあったのだけど
つい、寂しさに負けてしまって、愚痴ってしまいました

うふっ、でも。
今から、一人酒盛り(?)の続きをやろうと思っております。
と言っても、明日木曜日は授業が結構シンドイ日なので、そこそこに、ですよん♪

それに。
一応「女の酒飲み」として、勝手な美学(???)なるものを自分に課しておりますので。
ハイっ、これは全くヤケ酒とかではないのです、「嬉しく楽しく傾ける杯」ということで。




あぁ。
それにしても、2007年も12分の1が過ぎてしまった…
今年の目標、達成度はトモカクとして、まずは急いで着手しなくっちゃ、ね

不覚にも…

2005-10-22 17:07:14 | 自分のこと
風邪にやられています。。。

今年の2月あたり、数年ぶりに風邪をひき、苦しんだと思ったら、何と同じ年にまた風邪を引くなんて。
気の緩み?抵抗力が弱っているのかしらん。

確かに巷でもかなり流行っているそうですが、そんなときでも、これまでは殆ど風邪なんかひいてこなかったのになぁ。
…今週は何とか学校も休まず行きましたが、昨日の夜は頭は痛いし、咳が出るし。
食欲はあるのですが、作る気が全く無く、でも栄養つけなくちゃ!と学校の帰りに中華をテイクアウトで買ってきてしまいました。
食べるなり、薬を飲んでダウン。
それなのに夜中に咳で目が覚める始末。

ん、でも今朝は少し気分がいいです。
ただ、今日・土曜日に、ブログでも前宣伝した(?)チョコレートのエクスポジションにお友達と行く予定だったのに、敢えなく断念。
とにかく静かに休んで、一刻も早く元気になりたいと思っています。

勉強の遅れを取り戻すべく(←既にすっかり落ちこぼれております、ハイ)頑張らねばならない時期、風邪なんて流暢にひいてられる場合じゃないんだぞぉっ!うさたろう。
ハイ、その通り。早く治します…ブログにだって楽しい話題書きたいもの。

昨日の話で思い出したこと

2005-10-12 07:04:41 | 自分のこと
1時間の昼休みが短くてご飯が食べられない、と思っている今の私。
でも、日本ではどう過ごしていたのか?
すっかり忘れていたことを思い出して、思わず失笑してしまいました。
…そう今、ブログだから話せるお話。。。



私の勤めていた会社は体質の古い会社で、12:00~1:00までが基本的に全員のお昼休みになっていました。
場所は、日本橋と銀座の間=京橋あたりにあり、貸しビルにはいっていましたので、社食なんて勿論なし。
東京駅近辺の定食屋などで食べるのが常でした。

でも。
正直言って、職場の女性と食べるのがあんまり好きじゃなかった(結構孤高の人?)。
といっても、和を壊すのも嫌いなので、週に2回は同じ職場の先輩と食べました。
しかし、残りの3日は友達と外で食べると言って、職場を離れたものです。

確かに、そのうちの1日は、近くの会社に勤める大学時代の友達、或いは、会社の同期、などと食べていましたが。
そう、後の2日は…
なんと、丸の内まで走って行って、ビルの屋上にあるゴルフ練習場で、打ち放しを2箱。
そして、会社に戻る道すがらにあるドトールで、サンドィッチとコーヒーを摂り、何気ない顔をして職場に戻る、なんてことをやっていたのでした。
たった1時間の休みの間に…。

こんなことをしているなんてバレたら変人と思われるし、その割りに全然ゴルフも上達しなかった(考えずにバカスカ打つだけだったからでしょう)ので、決して人に話すまい、と思っていましたが。
ブログだから、つい告白。

う~む。私って結構変な人、だったのかもしれませんね。
まぁでも、それも日本だからできた話。

道を走ることは、フランスでは基本的に禁じられています(?)。
どんなに遅れても、大人は走ってはいけない。
急ぐとつい走ってしまう私は、フランス人の友達によく怒られます。
何があっても走るな、と。
というわけで、フランスでは決してできない昼休みの過ごし方、でありました。
懐かしいなぁ~…

会社を辞めて

2005-10-01 15:36:01 | 自分のこと
話の続きだったのに、3日もお休みしちゃいました。
毎日遊びに来てくださった方、申し訳ありません。。。
…火曜日に突然、前住んでいた街に行くことになり、向こうで2日間過ごしてきました。
昨日、帰ってきた夜更新できればよかったのですが…。
家に、日本人カップルをご招待していたため、慌てて買い物、用意、そして宴会(?)。片付け終わったのが2:00過ぎで、即刻寝てしまいました。
でも。言い訳、ですね、ゴメンなさい。
…気を取り直して、お話の締めくくりといきたいです。



会社を辞めたのは、何か具体的にしたいことがあったわけでもないので、さぁて何をしよう?と考えました。

そういえば、死ぬ前に1度、脳細胞とやらを使ってみたかったなぁ。
…実はこれまでなんとなく要領だけでツルツル生きてこれた私は、ちゃんとした「勉強」に打ち込んだ記憶がなく、病床の反省事項だったんです。
ですから、何かしら勉強っぽいもので、楽しそうなもの、再就職するにあたってほんの少しでも有利になりそうなこと(←ちょっとスケベ心が入っちゃいました)。
そうだ!
新しい語学の勉強でもしてみよう!

英語は、皆出来て当たり前の時代だから、今更勉強してもねぇ。
あぁ、ポルトガル語もいいなぁ。
サッカーの試合に行ったら、選手と話ができるかもしれないし。
(ポルトガルのポルトガル語とブラジルのそれとは違うらしいですけどね。会話はできるでしょう…)
それとも、美味しい・カッコいい、イタリア語かなぁ。
スペイン語もいいかも。
発音だけでは、日本人には馴染みやすいって言われるし。
なぁんて最初はあれこれ悩みましたが、最終的には、比較的メジャーなドイツ語かフランス語で迷うことになりました。
たった1年間だし、あんまりメジャーじゃない言葉を習っても、その後忘れる危険が多そうだし、と。

ドイツ語は、高校からやっていて、大学でも第一外国語として選択したので、すっかり忘れたと言いつつも、心そそられるものがありました。
でも。
折角新しいことをやろうと思ったわけだし、完璧なステレオタイプな考えですが、もし勉強のために文献を読みたいと思ったら?
イメージとして、ドイツ=工学・医学系、フランス=芸術・食べ物系。
はい、フランスに決まりぃ!となったのでした。(なんて単純…)

4月上旬学校を探し、集中コースは登録のキャンセル待ちといわれ、ちょっとガックリ諦め気分で、京都に一人旅をしました。
桜が満開、ゆったりと流れる、私の自由な時間。
でも、旅立って3日目くらいでしょうか。
携帯電話で、希望のコースに登録できるという知らせを受け取り、授業が始まる、と慌てて東京に戻りました。

そして。
学校が始まり、フランス語と格闘する日々となりました。
フランス語暦が長い人、そしてよく出来る人も何人かいるなかで、全て1からノロノロと進む私は、いつもクラスではビリっ子に近い出来。
劣等感にさいなまされ、口が回らない私は、語学なんて小さい頃から始めるものだと後悔もしました。
それに。宿題にすら多くの時間を割かねばならず、満足にお酒も飲めない日も多かったです。

それでも、1学期、2学期と続け、3学期もやっぱり受講してしまいました。
1年の充電期間はもうすぐ終わり。
そろそろ就職活動も考えなくっちゃ。
でも。意に反して、このままフランス語と離れるのは嫌だという気持ちになっていました。

結局、もう少しだけと学校に残り、再就職が見えてきた6月の頃です。
以前、勤めていた関係の仕事でフリーでやらないかという嬉しい提案も受け、その気になっていましたが、今ここでフランス語と離れて仕事を始めると、また仕事だけの生活に没頭するのが目に見えていました。
フランス語一生やらないことになるだろう…
こ1年間は何だったのかしら?ただのお遊び?

例えフランス語を活かす仕事に巡り合わなくても、フランス語をモノにしないで止めてしまうのは絶対いやだ!
いきなり、仕事のオファーを断り、留学する。という決意をしてしまいました。
でも、ハテさて一体、留学ってどうやってするの?
今まで留学なんて考えたこともなかったので、手続き1つで迷いましたが、学校は10月から始まる…
早く手続きをしなければ手遅れ。
誰一人として相談できる人はいなかったのですが、フランス語を教えてくださった先生のなかでとりわけ大好きだった先生に、図々しくも相談をしました。

名前を言ってもわかってくださるかなぁ?というような状態だったのに、快く相談に乗ってくださったA先生。
留学期間は2年。と言った私に、先生は、
「僕は語学学校をあまり知らない。でも○○○○○ならいい学校だし、パリなんか大都市に行くより、静かに勉強に打ち込めるだろう。
1年は語学クラスに行き、そして2年目は、その学校でフランス語教師の資格が取れるコースがあるので、頑張ってそれに行きなさい。その資格があるからといって日本に帰ってきて役にたつかは疑問だけれど、あるのと無いのは違うからね。」

迷わずその学校を選びました。街がどこにあるかも知らずに…。
両親に詳細を話したとき、母は珍しく反対しました。
「都会しか知らない貴方に田舎の街で暮らせるわけがない。パリにしなさい。」と。
でも、迷っている時間はありません。
書類を取り寄せ、渡航の手続き。どこに住むの?
…学校の斡旋機関からは、貴方の希望に沿う住いはありません、との回答をもらい、現地に行って探すことを覚悟。
最初の1週間だけホテルを予約し、親しい友達にすらゆっくり連絡する機会も持てないまま、慌しく9月の、とある日、期待と不安を胸にフランスにと旅立ってきたのでした。



ということで、以上3回連載、私が何故フランスに来たか、のお話でありました。
読んでくださって、ありがとうございます、ペコリ。
…それにしても、こんな思いつきだけで、4年目を迎えることになっているんですね。ふ~む。。。
ま、人生なんてそんなもん、なのかもしれません。

快復後…

2005-09-27 03:47:41 | 自分のこと
…思いがけず長いヒストリーになってしまっていますが、今日こそ終わらせたいなぁ。



病院のベッドで思ったことは、他にもありました。
「人間ってこんなにも呆気なく死んじゃうんだ」ってこと。
…私は、どんな神様か知らないけれど、神様の存在自体は信じていて、死ぬ間際には必ず本人に前触れをする(予感をさせる)と信じていました。
でも。なぁんにも、感じなかった。全く何も。
(だから今こうしてまた生きているのかもしれません。)
ホントに突然、死って迎えちゃうのね。だったら、やっぱり好きなことをして生きたほうがいい…

それと。私の勤めていた会社は、一般的には大企業の部類に入る会社だったので、私が休んでいる間の配置換えやら、減給やら、という措置とは全く無関係でした。
しかも驚いたことに(後から知ったことですが)、肝臓という部位だけで、成人病の分類になり、原因はなんであれ成人病休暇扱いをされ、病欠になるまで至りませんでした。
お給料は、1日も会社に行かずとも毎月、満額私の銀行口座に振り込まれ…
なんてアリガタイことだ、としみじみ思ったものです。

歩けるようになって、病院内のお散歩が許され、大部屋の病室の前を通りかかると、他の患者さんたちは珍しそうに見ます。
消化器病棟には、やっぱり成人病の方ばかり、私くらいの年代の患者さんはそんなにいないのですから。
どうしたの?とよく話しかけられました。
その中に、意外と若い男性がいました。
彼は膵臓病で入院。
こんなに休んで、お給料が減る、戻ったら解雇されるかも、と、とても心配していました。今はどうされているかしら…

肝臓は消化・解毒作用を行うので、食事をするとすごく疲れる。
食べると、すぐに横にならなければいけません。
長かった退院生活に別れを告げることになっても、すぐに会社に復帰とはなりませんでした。
とにかく疲れやすいので、通勤も気が遠くなる作業なのです。

でもお蔭さまで、段々と回復。死やら失明の心配からもすっかり解き放たれ、時差通勤で出社させてもらうことにしました。残業も一切無し。
誰一人としてそんな私に嫌な顔もせず、労わってくれました。暖かく迎えてくれた職場に本当に感謝、です。

そんな折です。年末間近、1通の社内親展メールをもらいました。
開けてみると、人事部からの連絡。
ずっと休んでいて、会社のことは何も知らなかったのですが、こういうご時世、うちの会社も総合職を対象にした早期退職制度をその年導入することになったらしいのです。

貴方が今普通に辞めるといくら、今回の早期退職制度で辞めるといくら、というのが明確な数字で載っていました。
その金額の違いに驚いたとともに(退職金って基本的に(古い概念の会社だと)定年退職される人のためにあるのですね)、私の大好きな会社が辞めてもいい、って言っていることに驚愕しました。
(私は会社って一度入ったら、辞めてはいけない、くらいに思っていたのです。だから愛社精神も強かったのでしょう…)

前述のように、大企業に勤めているありがたさは身に沁みていたけど、一方で、人間は死と隣りあわせで、今生きているということを大事にするべき、と強く思った私。
会社に怒られず辞められる機会だ!即断で、辞めてみよう、と決意しました。

誰にも相談せず、年明けの指定日。
勤務時間中に公衆電話に行き、指定電話番号に電話をしました。
何度か試みた後、電話は繋がりました。
「早期退職制度に応募したいのですが」
必要事項を述べると、相手はそれでは、貴方の部長さん宛に書類を送るのでそれを記入し人事部宛返送してください。と。

部長に、話があると時間をいただき、応募したこと、書類が届くだろうことを説明しました。
…課長には、まだ言えませんでした。部長に、自分から言うので、どうか暫く黙っていてくださいとお願いをして。

週末に家に帰って、両親にこれは相談でなく、決断したことだと話をしました。
一度私を死んだものと覚悟した両親は、心配そうに、でも納得してくれました。
それから、数日後、仲良しの同期が組合の役職をやっていたため、内密に私が応募したことをしり、連絡して来ました。
会うと、「この制度は、僕たちのためにあるんじゃない。これは団塊の世代にもうポストが与えられないから辞めてもらうために試験的に実施することなんだ。撤回しろよ!」
…多分、本当の狙いはそうだったのでしょう。でも決意は勿論翻りませんでした。もうちょっと好きなように生きてみたい…

それから約3ヶ月、残務整理などであっという間に過ぎていきました。
4月1日。自由な私がいました。
何をしよう?
したいことが具体的にあったわけでもない。ただもっと自由に、って思っただけ。
1年後には再就職をするつもりでした。
1年間の充電期間。これまで頑張ったご褒美、何をしよう?



ゴメンナサイ。次回で絶対に終わりにします…。今日はこれにて、お終~い。

何故フランスに?の続き

2005-09-26 20:23:47 | 自分のこと
昨日の晩は、快適気分でブログ更新ができるはずだったのに。
メールを書き終わった頃に、日本人の話好きな(というより寂しがりやの)友達から電話。
…受話器を置いたときは、もうシャワーの気分で、PCの電源を切って寝てしまいました。
今は、そうして翌日、お昼ご飯後の更新、と相成ります。。。
何故フランスに来たかっていう自分の話の書きかけでしたっけ。



…というわけで、集中治療室にいれられた私。
朦朧とした頭で、自分がもうすぐ死んじゃうのかなぁ、なんてボンヤリ感じてました。

それまでの人生を振り返ってみても、まぁまぁ楽しかったし、幸い(?)守るべき子供も旦那様もいないし、親不孝だけど親より先に死ねて嬉しい(私はとても寂しがりやなのであります)…。

ただ、心残りといえば、結構自分を出さないで、ガマンをしながらずっと生きてきたかな、と。
もう1度生まれ変わるなら、もう少し自分の気持ちに素直な人生を歩みたいものだと思ったのでした。

それと。原因は肝臓病、でしょ。
多分、肝臓病で死んだ、となると、きっとそれを聞いた多くの人は、「うさたろう、酒の飲みすぎだったんだよ!」と言うにちがいない。
それはどうしても耐えられない!
チベットで感染したってことだけはきちんと理解してもらわなくっちゃ、と。

お医者様たちも、症例にみたことがないほどの酷い状態だった私の肝臓。
でもありがたいことに、それまで人一倍健康に恵まれていた私は、死の宣告とは裏腹に、ほんの少し快復の兆しがみえてきたようです。
…万が一助かったとしても、失明する可能性が強いです。(肝臓って目と関係があるんですね。)
お医者様に、親はまた、最悪な宣告をされました。

入院生活は、とっても辛かったです。
頭をあげることすら禁じられ、ひたすらベッドに横になっていました。
食事もかなり長い間、与えられませんでした。
食べていないので、排泄もしないわけですが、漸く重湯(というよりお湯にご飯粒)を口にし始てから、やっぱりトイレに行きたくなるわけです。
しかし、起き上がることは許されていません。
看護婦さんを呼ぶと、洗面器みたいなものを渡される、「ベッドの上でやりなさい、終わったら呼んでね。」と。

辛くて、出ませんでした。したいのに、出ない…
代わりに涙がでました。
ここまで人のお世話にならないといけない自分が情けなくて仕方ありませんでした。
…出なかったことを告げると、看護婦さんは優しく、また今度したくなったら気兼ねなく呼んで頂戴ね。と。

お風呂にはいれないから、二人がかりで、ベッドの上で髪を洗ってくれたり、身体をすみずみまで拭いてくれたり。
看護婦さんの素晴らしさには、本当に頭が下がりました。

そうこうして季節は秋でした。
起きている間は、ラジオだけが気分転換。
秋って、ビール新製品の季節でもあるんですよね。
音だけで、購買意欲を湧き起こすためのCM。
コップにビールが注がれる音は、確かにおいしそうには聞こえたものの、万が一私の病気が治ってももう一生飲まないことになるだろうと思ったものです。
…それでもその時は、ま、それまでに十分飲んでいるからいっか、と思ってた。

尿管を漸く外してもらえた日、トイレに自分で立って行かれることが出来たとき、どんなに嬉しく感じたことでしょう。
そしてまた、シャワーを浴びることを許されたときは、やっぱり嬉しくてありがたくて涙が出ました。
どんなにゆっくりでも、人の手を借りずに自分が動けるありがたさ。

部屋の外を歩く許可が降りたとき、でもとても驚きました。
自分が思うように歩けないことに。
そろり、そろり、としか足が動かないのです。
階段が下りられるようになったのは、またそれから暫くしてからのこと。

ですからやっぱり大きな声で主張したいのは
歳をとって入院させてしまうのは、大変な危険です。
本人が辛かろうが、歩くことが病気に差し支えないなら、無理にでも自分の足で立って歩かせるべきです。
人間使わないと退化するんです。

と。また話がいきなりそれてしまったところで、やめておきます。
続きは、今晩…ということで。

フランス人ってチベットがお好き?

2005-09-25 04:40:58 | 自分のこと
パリの街を歩いていて、ささやかに驚いていることがあります。
チベット関係のお店が意外と目につくこと。
私の感覚での「意外と」なので、そんなに無いのかもしれません。
でも。
この間まで住んでいた小さな街でも、チベット料理屋さんやそういった雑貨屋さんはなかったけれど(だって日本料理屋さんだってなかったですから)、時々チベットを題材にした展覧会などさえ行われていて、秘かにびっくりしていたのです。

それがこうしてパリに来てみると、レストランなどがあるじゃないですか。
何故でしょう?
東京にすら、私はみかけたことがないのに、です。
(同じアジアだし、しかも日本からのほうが距離的にも近いはず…なのに。。。)

例によって、勝手な結論。
フランス人は、チベットに意外と興味を持っている人が多いのでは?ということ。
ダライ・ラマとかのニュースも、日本に比べればいろいろなところで取り上げている気がします。

それでは、何故私がこうしてチベットに関心を持つのか。ということを今日はツラツラと書こうと思います。
…ブログにいつか書こうと思っていたのですが、すっかり忘れていましたから。

実は、私が今こうしてフランスに来ているのは、元を糾せばチベット旅行をしたからなのです。
…サラリーマンが向いていて仕事が生きがいだと信じていたし、会社の中で偉くなろうという野心もあった私。
夏休みもとれない数年が続いた後に、大学時代のクラブの同級生から、夏休みにチベットに旅行しない?というお誘いを受けたのでした。

夏休みくらい取ってもいいかな、と思っていた。それに元々旅行は大~好き。
チベットはまだ行ったこともない国だったし、でも自分ひとりでは行こう!なんて思いつかないだろう。と、2つ返事で軽くOKしたのでした。
実は、どこにあるのかもよく知らなかったのに、ね。

で、調べると、それは高地にあって、結構いろいろ気をつけなきゃいけないことがある、っていうことに気がつきました。
高度計も買ったし、高山病にならないように、大好きなアルコールも飲まないことを誓い、またお風呂も入らずにすむように(シャワーを浴びただけでグッタリすることもあるらしい)水を使わないシャンプーなども買い揃え、準備万端で出発の日を迎えたのでした。

元々どちからといえば体力が自慢のほうで、仕事で富士登山をした時も高山病にならなかったから、気をつけていれば大丈夫だろうと思っていたました。
ところが。
いや~、高山病キツカッタ。(と言ってもホンモノの高山病ではなく、ちょっと辛かったくらいだったのでしょうけどね。)
だから、本当に、アルコールなんて舐めようとも考えなかったし、危険に近づくと思われることは全て避けて過ごしました。
(フルーツ、生野菜は決して食べない、とかも含めて。)
そうして、低地に降りてから、安心してアルコールを飲み、なんて楽しく貴重な経験をした旅だったと思い、帰国したのでした。

それから1ヵ月後。
急に熱が出ました。ウィークデーだったので、出社。
昼休みに、オフィスの近くの医者に行きました。
風邪との診断で、解熱剤をもらい、その日は残業もせずに帰宅しました。
翌日。やっぱり熱は下がりませんでしたが、会社を休むわけにもいかなかったので出社しました。
…寒くて寒くて震えがきましたが、何とか終業時間まで仕事を続け、その日も早々帰宅しました。
その夜。熱が更に高くなり、眠れませんでした。
寒気と、暑さが交互にやってくるんです。
パジャマを数回かえ、お布団を山のように着て…朝を迎えました。
土曜日の朝。
あまりに辛い気分だったので、とても一人でこの状態で寝ていても駄目だと、所沢の親に電話をしました。(その頃私は浅草近くに一人暮らしをしていました。)
父親が車で迎えに行こうか、と言ってくれましたが、時間を考えて待ったりするのが辛いから、自分のペースで一人で帰る、と言って電話を切りました。

暫く留守にするだろうという予感から、汗でべっとりなったシーツやパジャマを洗濯し(後になって考えるとよくやったなぁ、と思います)、ヘロヘロになって、電車を3本乗り換えて実家に戻りました。
実家の近くの医者にも行き、検査も少しやり、解熱剤をもらいましたが、そんな薬を飲んで少し収まったとしても1時間後には42度近い熱がまた出てしまうのです。
熱が下がると、寒気で震えがとまらない…
熱が上がると暑くて汗だらだら。
そのたびにパジャマを変えるため、また寒さに震えてお布団を着せてもらうため、階下にいる母親を親子電話で呼び出しました。

母親もグッタリ。
…食い意地の張った私も、流石に食事も飲み物もとるどころでなく。
実家に戻って3日?4日?とうとう夜中の2時近くのことです。
我慢ができなくなって、母親に救急車を呼んで、と頼んだのでした。

病院に運ばれ、翌朝、4人私のベッドの周りを取り囲んだお医者さん
「1ヶ月前くらい、何をしていた?」
「?」質問の意味がわかりませんでした。
「どこかに行った?」
「あぁ、チベットです。」
お医者さんは顔を見合わせてうなずきあいました。
「それだ、君はね、肝臓病になったんだよ」

あっという間に尿管をつながれ、集中治療室に移されました。
…後で聞いたところによると、親は早速呼ばれて、私の死を宣告されたそうです。



あらら。
何だか既に、すごい長いストーリーになってきました。
まだまだ終わりそうにないので、明日続きを書くことにします。
…読んでくださってありがとう!