本当におかしな事が
罷り通っている!!
これでは全員パラノイア症候群と
云われても可笑しくはない!!
パラノイア【paranoia】内因性の精神病の一型。偏執的になり妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序が保たれているもの。妄想の内容には、血統・発明・宗教・嫉妬(しっと)・恋愛・心気などが含まれ、持続・発展する。偏執病。妄想症。
正しく、これが現代社会の病巣である。多かれ少なかれ、誰しもその罹患に注意する必要がある。病名について専門家ではないので、これ以上、言及するつもりはないが、要するに精神的におかしな事が、大手を振るっている社会が今であろう。それを表現したいだけだ。
自分が、少し恵まれていないから、他人が恵まれているのは可笑しいと考える。他人の不幸は自分の幸福ではないにしても、他人の幸福だけは許せない。こう考えているのは、精神的病変である。
それが勝ち組、負け組思考にはある。
いわゆる少数の勝ち組は、勝ち誇っているであろうか? そうではない。戦々恐々としている。何時、取って代わられるかという不安が常にある。勝ちは勝ちでも常に相対的であるから、上には上があるもので際限がない。
畢竟、自分に近い競争相手と見比べて、安心したり、嫉妬したりする。一番誇りを満足させるものは、自分以下の負け組に対してである。他人の不幸は自分の幸福だ。そうなってくる。これは、明らかな病変兆候だ。
これは病変であるから、本来のものではない。本来は『幼子如くならずんば、天国に入れず』と言った、イエスの金言に集約される。
人間は、変に賢くなったのであろう。これを分別智と言われる。しかし、誰も自分の事を差し置いて、他人や周りのことばかり目を向けて、一喜一憂するところにある。それに強欲が加わると始末が悪い。
人生は誰でも自分のためにあるはずであるが、他との比較競争になった。これが諸悪の根源だ。自分であって、自分を見失っているのである。だから、自分をも殺すことになる。自殺である。
秋葉原で凄惨な事件があった。その裁判が今行われている。被害者の不幸は言うべくもない。加害者を許すことは出来ない。それは大方の人間の感覚だ。同時に哀れを禁じ得ないのは加害者の方であろう。一体、彼(加藤)はそれにより、何を得、何を失ったのか? おそらく、得たものはないであろう。
そして、確実に今生の人生を失うであろう。確実にその負い目を永劫に背負う事となる。背負いきれるであろうか? 死刑は間違いがない。自殺に等しい。仮に死んでも、魂があるのであれば、その魂の成長は失われた。最大の不幸者は、彼自身であることを本人は気づいていない。
被害者やその遺族はその思いを巡らすことは、無理からぬ事である。しかし、周りの者はそれに気づかなければなるまい。死刑になったからと云って、それで一件落着とはならないのだ。精神的病変者を除いても、解決にはならない。
詳しい事情は承知している者ではないが、彼の生い立ちを如何に弁明しても理由にはなるまい。彼の母親には彼と同等の負い目を負うことにはなるだろう。しかし、同様のにたケースは広い世間にはないとは云えない。そこで気づき踏みとどまる者は幸いだ。
その意味では、彼(加藤)の最期の救いがあるのかも知れない。
病める者には、介添えが必要だ。今、最大の病める者は、飽くなき勝ち組を目指す成功者とその元に打ちひしがれた負け組の最底辺の人々だ。両方に病変の兆しがある。これは確かなことだ。
勝ちも負けもない、自分の人生にひたすらに生きる者こそ幸いである。そして、それは生かされている事実に気づくことが大切だ。実際、人間は生きているのではなく、生かされているのだ。蒔かず、刈り取らず、野に舞う鳥も、嬉々として生きている。そして、必ず、死を迎える。それは確実だ。
何憂うことなく、死を迎える。何憂うことなく生を得たように、何憂うことなく死を迎える者こそ、健常者と言えるであろう。少なくとも精神的病変の欠片もない。
【転載開始】2010-08-02 19:51:14どうしてくれるの、、、 2010年08月02日(MON)
テーマ:心 あとになって、一体どうしてくれるの、、と思うことは多いが、口蹄疫も同様である。
日本を除くほとんどの国では、今後、口蹄疫が発生しても家畜を殺さないらしい。
理由は殺しても感染力が高いので蔓延を止めることはできないし、さらに言えば放っておいても、治るから。という理由。
九州ではすでに大勢の牛豚が殺されてしまった。
どうしてくれるの、、、である。
口蹄疫は治る病気なのだ。
そう、放っておいても。
私も最初からそう思っていたが、一度病気にかかるともう肉が細ってダメ、、、とか言っていた。
そんな馬鹿な、、、と思ったが、やっぱりだった。
人間だって病気のあとは痩せたりするが、その後はかえって元気になる。
牛や豚だって同じだと思うのだが。
全頭殺処分というのは、なんだかおかしな気持ちを抱いた。
しかもかかってもいない牛まで殺すというのは、なんだか、病的でさえあった。
放っておけば、全頭が確かにかかるかもしれないが、死ぬのは一部の子牛程度で、あとは治り、その後は一切、口蹄疫にはかからない。
免疫ができるためである。
今回の処置はあまりにおかしい。
問題あるものはすべて殺す、、、問題が生じそうな場合はすべて殺す、、、人は動物にやったことは、いずれ人間にも同様に考えるかもしれない。
問題を隠す、問題を敵視する、、こういうやりかたで的を得たものをこれまでに見たことがない。
この世に起こっているものは、そのほとんどが自然な災害のように見えて、実は人災である。
上に立つ人の無慈悲、無感動、人間性喪失、、それがもたらす人災で人類はいま苦しんでいる。
戦争についても、そろそろみんなも自分の頭で考えることだ。
戦争に正しい理由もへったくれもない。
すべてウソである。
戦争が回避できないことなどない。
起こそうとする人に負けない限り。
それには、個人個人がおかしいと思うことが早道である。
確かに戦争は経済を勃興させ、利益を生むことは確かである。
しかしその犠牲にされる方はたまったものではない。
誰が、自分の子供、愛する者を殺してまで豊かになりたいなどと思うだろう。
外部の人ならそれでもいいというのだろうか。
戦争は、ついさっき、そこで楽しそうに遊んでいたあどけない子供を、頭を八つ裂きにし、腕を吹き飛ばして枝にぶらさげ、足を引きちぎって路肩に放り出す、、、ここまでするものに、正しい理由などない。
そんなことをするぐらいなら、人類が仲良くみんなで死んでいくほうがまだ正しい。
自分の子供がそうされるなら、誰だって豊かさなど求めない。
また、豊かさと云うのは、そうしたものを通さなければ達成されないものとも違う。
それは誤解である。
人類を減らさなくたって、豊かに生きていく道は色々ある。
それには、夢の技術や発明や発見を人類の手に戻すことによってだが、それをすると、特権がなくなるため、どうしても悲惨な形で一部が豊かになる道を選んでしまう。
はっきり言って、だから、99パーセントの人はだまされていることになる。
人類がみんなで豊かになる道はおおいにあるのだ。
一部のみが異様なほど豊かになり、他のほとんどが貧しい世界、、、という形での豊かさを求めるので、こうした悲惨が必要になってくる。
要するに神経症的問題なのだ。
心がゆがむと、自分だけが豊かになるのではダメで、他の人が貧しい、、、という形を求める。
愛情に問題を抱えて人も同じで、自分だけが持てることが大事で、それには、他の人がもてないことが重要になる。
自己実現的であれば本来は、自分が豊かであるように他の人も豊かでありますように、、、となる。
自分に愛する人が与えられたように、他の人にも愛する人が与えられますように、、、となる。
それができないのは、神経症であるからだ。
現代は神経症を理解しなければ世界の実態を理解することはできない。
心がわからない経済学者には、経済がわからなくなっている。
心がわからない医者には、人間の健康がわからない。
心がわからない経営者には、金の流れがもうわからなくなる。
どのような大企業でも例外ではない。
システムを得て、その流れに乗ってまだ儲けられはするだろうが、そのシステムを構築したはずの土台が動き出している。
ある日突然、システム不能が襲うことになる。
その際、心がわからなければ平社員と同じ働きしかできなくなる。
意識の低い平社員に何千億以上の判断をゆだねても先は見えている。
なので、大企業もいずれジエンドとなる。
そんなに先のことでもない。
それがいやなら、本気で自分の頭で考えることだ。
まっさきに考えることは、目の前でさっきまで楽しそうに笑っていた子供や少女や愛する人の、腕がもぎれ、足が飛び散り、目がくりぬかれ、内臓が飛び散っていることを、心底、おかしいと思うことだ。
これまでのことをして、人類が欲しがるものなど何一つもない、、、と、はっきりと気付くことである。
そうしないと、色々な理由をつけて、そうした悲惨な出来事を正当化され、戦争を起こされていく。
そういう馬鹿なことを、はっきり馬鹿なことだと認識することである。【転載終了】