言語を含めた人類の相互理解の手段と様式は、世代交代を重ね、歴史的に変化してきている。特に近代以降、言語を利用する相互理解の様式が、言語自体の変化より、ずっと速い速度で変化する。
文字の普及、印刷の普及、宗教、儀式、学校、出版、新聞、電話、ラジオ、テレビ、パソコン、インターネット、携帯電話・・・。こういう相互理解の手段と様式の出現によって、人間の言語は信頼され、権威付けられる。信頼できる言語によって表現されることで、世界の物事は、しっかりした存在感と現実感を与えられる。人間どうしは、その現実を共有することで、さらに相互理解を広げることができる。現代の産業の発展と技術革新によって、近い将来、相互理解の手段と様式はさらに発展していくでしょう。たとえば脳内の神経活動を視覚化する装置の高性能化、などによって、人間の相互理解は大きく改善されていく可能性があります。
軽くて薄いヘルメットのような神経活動測定装置をかぶることで、テレパシーができる未来技術。頭の中で考えている言葉がパソコン画面の文字に表れる。心に浮かんだメロディーがパソコンのスピーカーから流れる。あるいは、冷蔵庫からビールを持ってくる自分を思い浮かべると、家事ロボットがビールを持ってきてくれる。そんな話は、かつてはマンガの世界でした。最近の科学の現状では、もうマンガではなさそうです。研究室で、その程度の技術は実験されています。コストが高くても買ってくれるマーケットがあれば、近い将来実用化されるでしょう。その先の時代には、言語に代わって、あるいは言語を大きく包含して、人間と人間との脳神経系の共鳴現象を表現するシステムの実現が予想されます。そうなると、相対的に、言語の重要性は薄れてくる。言語の地位は、言語発展以前の原始時代のようなところへ戻っていくでしょう。そういう時代になるとすれば、言語技術者の特権も危うくなってくるかもしれませんね。
人間の相互理解は、(拙稿の見解によれば)目の前の物質現象に関する運動共鳴から始まる。物質を扱う互いの身体運動に対する共鳴から物質の認識が共有される。その共鳴の共有を土台にして、言語が発生する。いったん、言語が獲得されれば、人間は、言語を使うことによって、目の前にはない遠方の物質現象、過去の事象、集団感情などをしっかりと共有できるようになる。
さらに、言語が扱う対象は拡張されて、感覚、感情、信念、欲望などを個人に帰属するものとして認知する機能が追加される。文字の時代になると、言語は、宗教、哲学など抽象的な観念を語る機能を獲得してくる。近代に至り、言語は科学、論理、法律などを明確に表現する能力を確立し、社会を維持するインフラ構造となっている。
私たち現代人が用いる言語の使い方は、過去の使われ方に比べると二極化している。一方の極には、数学と数値データを使って目に見える物質現象を明快に記述する科学の言語があり、他方の極には、擬人化や比喩を使って、目に見えない人心の動きや感情を精緻に記述する文学・人文の言語がある。
拙稿の見解によれば、人心を記述する場合に用いられる言語が表わそうとする対象は、物質世界の中には実体がない。命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・。こういうメタフィジカルなもの、感情的なもの、人間が内面で感じるけれども、脳の外の物質世界にはないもの、それらは、いわば錯覚であるともいえる。
私たちは、それにもかかわらず、それらの錯覚がこの世に実際に存在すると感じる。それらの存在感を、だれもが感じていると、私たちは感じる。それらの存在感に、人間は集団として共感する。それに対応して私たちは、無意識のうちに神経系を共鳴させて運動する。さらに、その存在感を言葉に置き換えて使っている。
人心をあらわすそれらの言葉に、私たちの身体は無意識に反応する。言葉を聞くと、その内容によって、腹が立ったり、喜んだりする。つまり、脳神経系ではそれぞれの感情に対応する神経伝達物質が分泌され、自律神経系が活動して、心臓、血管や顔やおなかの筋肉がひきつったり、弛緩したりする。言葉や言葉にならない多くの共有された錯覚は、こういう仕組みで、私たちの毎日の生活そのものになっている。この仕組みによって人間は生きている、といえる。逆に言えば、そうして無意識のうちに私たちに共有されて使われている錯覚は、過去何万年にもわたって人類の生活に有益であったから遺伝的にも文化的にも継承されてきた。その結果、現在、私たちに使われている。
それらは、科学で扱われる物質の属性や、経済で扱われる貨幣による価格など、目に見えて数字で表わせるものよりもずっとあいまいなものです。たとえば、命一個の重量は何グラムか? 心一個の値段は何円か? A君の欲望はB君の欲望に比べて、何倍あるのか? 測定方法もない。どの本にも書いてない。だれに聞いても答えられません。
それにもかかわらず、命も心も欲望も、人間にとっては、物質や金銭よりもずっと重要なものと感じられる。私たちにとってそれらの錯覚は、錯覚というのがはばかられるような重い存在感を持っている。
命は地球よりも重い。心はお金で買うことはできない。あの人はだれよりも欲が深い。などと言う。私たちは、それらの存在感をはっきり分かっている。それらは、人間だれもにとって、無意識のうちに身体が共感し共鳴して動いていくことで、客観的なものであるかのように安定して存在する。
命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ・・・私たちは、これらの存在によって私たち人間が動いている、という感覚を体感する。その動きは、私たちだれもがよく知っている、世の常識、に従っていると感じられる。その常識を使って、私たちは、他人や自分の、毎日の行動を予測することができる。それらの存在やその常識は、しかしながら、実は、物質現象ではない。物質現象でないものは科学では説明できない。そしてそれらは物質現象ではないが、私たちがよく知っている常識として、れっきとした法則にしたがっている。それは、科学でいう自然法則とは別の、信頼性と再現性のある法則である、と感じられます。
拙稿では、これらを錯覚であるとする(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これらは、たしかに、物質として実体がない、という意味で錯覚といわざるを得ない。ふつう私たちが、あるものを錯覚と呼ぶときは否定的な意味で言う。「それはただの錯覚に過ぎない」とか、「錯覚にだまされてはだめだ」などと言う。しかし、拙稿で筆者は、実体がない錯覚はだめだ、とか、だまされてはいけない、とか言いたいわけではありません。
この点に関しては、拙稿の見解は、まったく逆です。私たちは、それら有益な錯覚を共感し言葉に置き換えて使いこなすことで、それらを私たちの間で、しっかりと存在させることができる。そして、そうすることで人間は互いに結びつき、社会生活がなりたっている。逆に言えば、そのようにして社会を維持することでしか、私たち人間は生きていけない動物です。
しかし、自分たちの脳の機構もその集団的共鳴の機構もよく分かっていない私たち現代人の浅い知識だけにもとづいて、これ以上、新しい錯覚を大量に作り出すのはよくない。特に、錯覚を操作する言葉のゲームに、これ以上、熱中したりすることは危ない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、こういう言葉で表わされるもの、それら目に見えない、物質世界には実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部と第二部を参照)、メタフィジカルなもの、つまり集団共鳴による錯覚を、あまりまじめに追求してはいけない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、とても便利な言葉ではある。けれども、そういう言葉のさらに奥底に、私たちがふつうに分かっていることより深い意味が見出せるかもしれない、という間違った期待を抱いてはいけません。
それら錯覚を、個人が強い神秘感を伴って内面化したり、ラジカルに深く議論したりすることは危険です(どのように危険か、については拙稿第一部と第二部を参照)。哲学は、古来、その危険を冒す行為として始められた。まじめな哲学者ほど、危険に気づかずに落とし穴にはまっていった。哲学が抱え込んでいるその間違いを、拙稿は指摘してみました。
まあそれでも、筆者などでもこれに気がつくくらいに、現代では、原子や宇宙や人体など、物質に関する科学の実績が深まり、従来の哲学の領域を深く侵し始めている。いずれそれほど遠くない将来、有史以来の哲学が格闘してきたメタフィジカルにみえる謎や神秘や錯覚の正体も、哲学用語を使わずに、物質の言葉で明快に表現できる時代が来る(と筆者は確信しています)。
あるいは、脳内の神経活動を画像や音で直接リアルタイムに受け手の視覚と聴覚に伝える便利な装置が開発される。あるいは、哲学を講義するロボットを作れるようになる。あるいは、筆者のように哲学に懐疑的な話をしたがるロボットも作ることができる。もしそのようなときがくるとすれば、人間どうしの相互理解は完全に近くなるはずです。そしてようやく、哲学は科学を羨む必要がなくなるのでしょう。
(18 私はなぜ言葉が分かるのか? end)