「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

伊達騒動 Long Good-bye 2024・05・10

2024-05-10 07:30:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、先月から読み進めている

 本の中から 、備忘のため 、抜き書きした 文章 

  ところどころで 引っ掛かり 、都度 思いが飛ぶので 、

 なかなか はかがゆかない 。行きつ 戻りつ 読んでいる 。

  山本周五郎著「 ながい坂 」とともに 、若いころ読んで

 影響を受けた 本 のひとつで 、書名は「 樅ノ木は残った 」

  もとは 、1950年代半ばに 、日本経済新聞 に連載され

 た新聞小説だそうな 。

  今 再読しているのは 、四部構成の電子書籍 。これに慣れ

 ると 、活字の小さい 紙の本 は辛くなる 。作家が丹精込めて

 書いた本だから 、引用といっても 、コピペ はしない 。

  この本をもとに 、数々のドラマが映像化されたが 、得心の

 いくものは いまだ ひとつもない 。

  引用はじめ 。

 「 原田甲斐宗輔は 、自分の居間で手紙を書い
  いた 。彼は百八十センチちかい背丈で 、色の
  浅黒い 、温和な顔だちをしている 。濃い眉は
  やや尻あがりであるが 、静かな色を湛えた眼は
  尻さがりであった 。おもながで 、額が高く 、
  その額に三筋の皺があり 、その皺が四十二歳と
  いう年齢を示しているようであった 。
   甲斐は黙っていると四十五六にみえる 。彼は
  あまりものを云わない 、たいていのばあい黙
  って 、人にしゃべらせている 。話しをすると
  きにも饒舌ではないし 、決定的な表現は殆ん
  どしなかった 。彼は稀にしか笑わないし 、そ
  れも声をあげて笑うようなことはない 。一文
  字なりの 、かなり大きな唇と 、その尻さがり
  の穏やかな眼で微笑するくらいであるが 、眼
  尻に皺のよる眼のなごやかな色と 、唇のあい
  だからみえるまっ白な歯とは 、ひどく人をひ
  きつける 。そんなとき彼は 、三十四五にも 、
  また 、三十そこそこのようにも若くみえた 。  」

 ( ´_ゝ`)

 「  おもながの 、気品の高い相貌で 、いかにも
  政宗の末子らしく 、その眉間には威厳のある
  するどさと 、ねばり強い剛毅な性格があらわ
  れていた 。甲斐より二つ年下であるが 、見た
  ところは甲斐より老けている 。しかし声は細
  く 、女性的で 、わかわかしい響きをもって
  いた 。  」

 「  兵部と雅楽頭の関係は古い 。兵部宗勝は政宗の
  第十子で 、母は側室の多田氏であった 。十六歳
  のとき父政宗が死んだあと 、兄の忠宗の厄介に
  なっていたが 、正保元年 、二十四歳のとき 、
  兄にすすめられて江戸へ出て来 、まもなく一万
  石の直参大名になった 。直参大名とは譜代と同
  格の意味であって 、明くる二年 、従五位下の兵
  部少輔に任じ 、同じ四年に立花(左近将監)忠茂
  の妹を娶った 。
   立花忠茂の夫人なべ姫は 、兵部の兄忠宗の長女
  だから 、つまり重縁になったわけであるが 、こ
  れらはみな雅楽頭の好意と助言によるものだとい
  われた 。」

  引用おわり 。

  ( ´_ゝ`) フー

 ( ついでながらの

   筆者註:これだけ時を経た小説であっても 、誤植と思しき

      ものに出くわすのは 、興味深い 。おそらくは 、

      作家の原稿から文字起こしをする際の 、ささいな

      瑕瑾 。校閲のし洩れか 、敢えて指摘しなかった

      忖度 の結果 か ?

       気が付いたものを 、二つばかり 。

      「  甲斐が起こされたとき 、もう日は昏れて 、
       部屋には灯がはいっていた 。彼は知らぬまに
       眠った 。その眠りが彼の気力を恢復(かいふ
       く)させたようである 。雅楽頭がこの家へあ
       らわれたことも 、いまではさして軍荷とは感  重荷?
       じられないし 、数日来の心労も軽くなったよ
       うであった 。風呂にはいり 、髭を剃り 、着
       替えをして出てゆくと 、その座敷には燭台が
       並び 、雁屋信助も 、芸人たちもすでにそ
       ろって 、酒肴の膳を前に坐っていた 。甲斐
       が盃を取ると 、信助が話しだした 。  」

      「 『 ではうかがいます 、その証文はどう
       いう意味でございましょうか 』甲斐は
       杯を置いて 、静かに大和守を見まもっ
       た 、『 十年以前 、御側衆であられた
       某侯が 、ひそかに同じ趣意の忠告を与
       えられました 。は三十万石分与とい  侯?
       う密約のあることを知って忠告をなさ
       れた 、もちろんその証文の他のお一人
       は 、天下に並ぶものなき御威勢のある
       方です 、しかし 、―― いかに御威勢
       並ぶものなき方でも 、六十万石を分割
       し 、御自分の縁辺に当る者に三十万石
       を分与する 、などということができる
       ものでしょうか 』
        大和守は屹と歯を噛みしめた 。すると
       両の頬の筋肉が動き 、唇が白くなった 。 」

       ( ´_ゝ`)

        引用した文章に出てくる三人 、すなわち

       原田甲斐宗輔 ( はらだ かい むねすけ ) 、

       伊達兵部少輔宗勝 ( だて ひょうぶ しょうゆう むねかつ  ) 、

       そして 酒井雅楽頭 ( さかい うたのかみ )

       が 、この物語の 主人公 と二人の ヒール ( 悪役 ) 。

       酒井侯が 、ラスボス 。ウィキペディアには 、

       「 酒井 忠清( さかい ただきよ )は 、江戸時代
        前期の譜代大名 。江戸幕府老中 、大老 。上野
        厩橋藩の第4代藩主 。雅楽頭系酒井家9代 。
        第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる 。
        三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で 、
        徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世
        の孫にあたる 。下馬将軍 。」

       と書かれている 。 ( 邸が 江戸城大手門の 下馬札 近くにあったことから

                         〈 下馬将軍 〉ともいわれるほど権勢を振るった 、そうな ) 

        因みに 、物語のオーラスで 酒井侯の策謀に

       「 待った 」をかける「 大和守 」は 、久世

       大和守広之 のこと 。ウィキペディアには 、

       「 久世 広之( くぜ ひろゆき )は 、江戸時代
        前期の大名 。若年寄 、老中 。下総国関宿藩
        主 。関宿藩久世家初代 。武家官位( 名乗り )
        は 従四位下大和守 。」

       とある 。

 

 

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母に捧げる詩 Long Good-bye 2024・05・08

2024-05-08 05:59:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、早朝のラジオ番組で聞いた

 スコットランド生まれの ニール・リード( Neal Reid 、

 1959年5月5日 -  )さんが歌う 「 " Mother of Mine "

 ( 母に捧げる詩 ) 」。御存命なら 65歳 ?

 radiko や youtube で聴き直して 、備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 ”  Mother of mine, you gave to me
  all of my life to do as I please
  I owe everything I have to you
  Mother, sweet Mother of mine

  Mother of mine, when I was young
  you showed me the right way
  things had to be done
  without your love where would I be
  Mother, sweet Mother of mine

  Mother, you gave me happiness
  much more than words can say
  I pray the Lord that he may bless you
  every night and every day

  Mother of mine, now I am grown
  and I can walk straight all on my own
  I'd like to give you what you gave to me
  Mother, sweet Mother of mine

  Mother, you gave me happiness
  much more than words can say
  I thank the Lord that he believe bless you
  every night and every day

  Mother of mine, now I am grown
  and I can walk straight all on my own
  I'd like to give you what you gave to me
  Mother, sweet Mother of mine
  Mother, sweet Mother of mine

  I pray the Lord that he may bless you ”

   引用おわり 。

 " bless you " のところを " regret " とする version もあるよう 。

  因みに 、筆者の「 邦訳して 」の依頼に応えて 、ChatGPT

 さんは 、この歌詞を 、次のように 、日本語にしてくれました 。

 「 ChatGPT :

    もちろんです。以下が邦訳です:

    母よ、あなたは私に与えました
    自分の思い通りにできる全ての人生
    私が持っている全てのものはあなたに負うもので
    母よ、甘い母よ

   ( 一番だけ取り出して 、もう一度 邦訳のし直しを頼むと 、

    今度は 、こんな風に訳してくれました:

     『 母よ、あなたは私に与えました
     自分の好きなようにすべての人生を送る権利を
     私が持っているすべてのものはあなたに負うもので
     母よ、甘い母よ 』)

     母よ、私が若かった時
     あなたは私に正しい道を示しました
     物事はどのように行われるべきか
     あなたの愛なしでは、私はどこにいるでしょうか
     母よ、甘い母よ

     母よ、あなたは私に幸福を与えてくれました
     言葉では言い表せないほど
     私は主に祈ります、あなたを毎晩毎日祝福して
     くださいますように

     母よ、私は成長しました
     そして私は自分でまっすぐ歩けるようになりました
     私はあなたが私に与えてくれたものをあなたに
     与えたいです
     母よ、甘い母よ

     母よ、あなたは私に幸福を与えてくれました
     言葉では言い表せないほど
     私は主に感謝します、あなたを毎晩毎日祝福して
     くださいますように

     母よ、私は成長しました
     そして私は自分でまっすぐ歩けるようになりました
     私はあなたが私に与えてくれたものをあなたに
     与えたいです
     母よ、甘い母よ
     母よ、甘い母よ

     私は主に祈ります、あなたを毎晩毎日祝福して
     くださいますように 

  英国生まれの8歳の少年がうたう歌詞として 、ふさわしい

 ように翻訳し直してくれと 、頼むと、これも瞬時にやって

 くれました 。

  「 ChatGPT :

    もちろんです 。その歌の歌詞に合わせて 、より
   子供向けの言葉や表現を使ってみましょう 。

   ママ 、あなたは私に与えてくれたの
   私の人生を自由に楽しむ時間を
   私はあなたに感謝しているよ
   ママ 、すてきなママ

   ママ 、私が小さかった頃
   あなたは正しいことを教えてくれた
   物事がどのように行われるべきか
   あなたの愛がなかったら 、私はどうなっていたでし
   ょうか
   ママ 、すてきなママ

   ママ 、あなたは私にたくさんの幸せを与えてくれた
   言葉では言い尽くせないほど
   主にお祈りします。彼があなたを毎日毎晩祝福してくれますように

   ママ 、今は大きくなったけれど
   今や私は一人でまっすぐに歩けるようになった
   あなたが私にくれたものを
   私もあなたに返したいな
   ママ 、すてきなママ

   ママ 、あなたは私にたくさんの幸せを与えてくれた
   言葉では言い尽くせないほど
   主にお祈りします 。彼があなたを毎日毎晩祝福してくれますように

   ママ 、今は大きくなったけれど
   今や私は一人でまっすぐに歩けるようになった
   あなたが私にくれたものを
   私もあなたに返したいな
   ママ 、すてきなママ  

  今年も 母の日 近し 。

 

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桜散る Long Good-bye 2024・05・02

2024-05-02 06:49:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、俳人 中村草田男

 ( なかむら くさたお 、1901 - 1983 )の句を

 いくつか 、再録 。

 「  蟾蜍(ひきがえる)長子家去る 由もなし( 『 長子 』 所収 )

   降る雪や 明治は 遠くなりにけり(1931年作。『長子』所収)

   冬の水 一枝の影も 欺かず( 『 長子 』 所収 )

   玫瑰(はまなす)や 今も沖には 未来あり( 同 )

   萬緑(ばんりょく)の 中や吾子の歯 生え初むる

           ( 1940年作 。『 火の島 』 所収 )

   勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

           ( 1944年作 。『 来し方行方 』所収 )

   葡萄食ふ 一語一語の 如くにて

           ( 1947年作 。『 銀河依然 』 所収 )   」

 

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 中村 草田男( なかむら くさたお 、

       1901年 〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日 )

       は 、日本の俳人・国文学者 。成蹊大学名誉教授 。

       本名は中村 清一郎( なかむら せいいちろう )。

       ( ´_ゝ`)

       中国アモイ出身 。東京帝国大学国文科卒 。高浜虚子に

       師事、『 ホトトギス 』で客観写生を学びつつ 、ニーチ

       ェなどの西洋思想から影響を受け 、生活や人間性に根

       ざした句を模索 。石田波郷 、加藤楸邨らとともに人間

       探求派と呼ばれた 。『 萬緑 』を創刊・主宰 。戦後は

       第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的

       な役割をもった 。次世代の 金子兜太 などに多大な影

       響を与えた 。忌日は『 草田男忌 』 として 、季語に

       なっている 。

       経 歴

        清国( 現中国 )福建省廈門にて清国領事 中村修 の

       長男として生まれる 。母方の祖父は 松山藩久松家の重臣 。

       1904年 、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前

       町に帰国 。2年後 松山市に転居 。1908年 、一家で東京に

       移り赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)

       に通学する 。1912年 、再び松山に戻り 松山第四小学校に

       転入 。1914年 、松山中学に入学 。先輩に 伊丹万作 がお

       り兄事する存在となる 。1916年 、伊丹らとともに回覧同人

       誌 『 楽天 』 を制作 。1918年 、極度の神経衰弱にかかり

       中学を 1年休学 。復学した頃に ニーチェの 『 ツァラトゥ

       ストラかく語りき 』 に出会い 生涯の愛読書となる 。

        1922年 、松山高等学校入学 。直後に可愛がられていた

       祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ 、その解決の鍵

       として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く 。1925年 、一

       家で東京に移転 、4月に 東京帝国大学文学部独文科に

       入学 。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが 、1927年に

       ふたたび神経衰弱に罹り翌年休学 。このころに 斎藤茂吉 の

       歌集 『 朝の蛍 』( 自選歌集 、改造社 、1925年 )を読んで

       詩歌に目を開き 、『 ホトトギス 』 を参考にしながら 『 平

       安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱 』 となる句作

       を始め 、俳号 『 草田男 』 を使い始める 。1929年 、母及

       び叔母の紹介で 高浜虚子 に会い 、復学したのち 東大俳句

       会 に入会 。

       水原秋桜子 の指導を受け 、 『 ホトトギス 』 9月号にて 4句

       入選する 。

        1931年 、国文科に転じ 、1933年卒業 。卒論は 『 子規

       の俳句観 』 。卒業後 成蹊学園に教師として奉職 。1934年 、

       『 ホトトギス 』 同人 。1936年 、縁談を経て 福田直子 と結

       婚 。1938年より下北沢に住む 。1939年 、学生俳句連盟

       機関誌 『 成層圏 』 を指導 。また 『 俳句研究 』 座談会に

       出席したことをきっかけに 、石田波郷 、加藤楸邨 らとともに

       『 人間探求派 』 と呼ばれるようになる 。1945年 、学徒動

       員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい 、

       同地にて終戦を迎える 。

        1946年 、『 成層圏 』 を母体として 『 萬緑( ばんりょく )』

       を創刊 、終生まで主宰 。1949年 、成蹊大学政経学部

       教授に就任 、国文学を担当する 。1954年 下高井戸に転居 。

       1959年 、朝日俳壇選者 。1960年 、現代俳句協会幹事長

       となるが 、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立

       が起こったため 、1961年に協会を辞し 新たに俳人協会を設立 、

       初代会長に就任する 。1965年 、成蹊大学文学部教授 。

       1967年に定年退職後 、非常勤講師となったのち 、1969年

       に同名誉教授 。1972年 、紫綬褒章 。1974年 、勲三等

       瑞宝章 。1978年 、メルヘン集 『 風船の使者 』 により芸術

       選奨文部大臣賞受賞 。

        1983年8月5日 、急性肺炎のため 東京都世田谷区北烏

       山の病院で死去 。82歳没 。死の前日洗礼を受けた 。洗礼

       名 『 ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎 』 。

       墓は 東京都あきる野市の五日市霊園にある 。

       没後の1984年 、日本芸術院恩賜賞が贈られた 。

       妻直子との間に四人の娘をもうけている 。お茶の水女子大学

       教授( フランス哲学 )の 中村弓子 は三女 。

        以上ウィキ情報 。  )

 

     花の命は短くて ・・・

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