今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「インテリという言葉は、私が物ごころついたころ、昭和初期にはすでに蔑称だった。インテリの多くは親がかりの左傾した大学生で、二十九日警察に拘留(こうりゅう)されると、すぐ転向する青白きインテリといわれていた。
明治年間までは学生は書生さんと呼ばれて親しまれていた。末は大臣大将かといわれたのはその末年まで、昭和になったら書生さんとはいわれなくなった。同郷の名士を頼ってそこの学僕になるものを書生といった。
皆が皆サラリーマンになりたがったのは昭和になってからである。明治の昔は『腰弁』といってバカにされていた。士農工商のうち商家や職人の割合が多かったからサラリーマンという言葉もなかった。
小学生のころ友が父の職業欄に会社員、会社員と書いたのを見て、私はこの世は会社員にみちている所かとびっくりした。どこそこの社員とは書かなかったのは、今にして思えば会社にランクがあったからだろう。一位のものはいいが二位三位は知られたくないから、ただ会社員と書いたのだろう。
時代というものは恐ろしいもので、当時の小学生の半ばは長じて左傾し、のち転向した。すなわち青白いインテリである。転向したものは転向しないものに負い目をもった。これがのちに災いをなすのである。
〔『諸君!』平成十一年十二月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「写真信仰は現代の奇病で、現代人はこの病気にかかってほぼ百年になる。それが近ごろ揺らいできたというのは、私にその兆(きざし)が見えるだけで本当かどうかは分らない。
写真のことなら私はその発祥から流行までを知っている。嘉永安政のころから新しもの好きな邦人は写真にとられている。維新の直前にわが国に来た西洋人はずい分写真をとっている。坂本龍馬の写真だって一枚だが残っている。残っていないのは西郷隆盛くらいである。遣米、遣欧使節の写真も残っている。当時の丁髷(ちょんまげ)の月代(さかやき)がいかに狭かったかを見ることができる。
『日本その日その日』を書いたモースは明治十年代の風物の実物を伝えている。モースは大森の貝塚を発見した人で、欧化する直前の日本を愛して、欧化してからの日本を嫌悪して、それまで断続して来日していたのをやめて、ふっつり来なくなった。
私は何年か前モースコレクションを見た。そこには山形屋の海苔の缶があった、油じみた梳櫛(すきぐし)があった、足袋屋の看板があった、ついでに穿き古した足袋の実物があった。モースは紺足袋が底まで紺であることを示すために片っぽを裏返して見せた。裏まで紺である紺足袋は今はないが、当時はあったことがわかる。むろん裏は白い足袋もあって、その裏に昨日ついたばかりにような何条かのよごれがついていて、見るものをしてしばらく立ち去りがたくした。
私が注目したのは足袋屋の看板で、それは板を大きな足袋の形にくりぬいたもので、軒にぶらさげたのだろう。なぜこんなものまで売りに出したのだろう、それを買う人があったのだろう。維新で山の手の武士は禄(ろく)を失ってちりちりばらばらになった。江戸の人口(百万人前後)は半減した。下町は山の手で食べていたのだから当然商(あきな)いはなくなって廃業、夜逃げするものが多かった。古道具屋がそれを捨て値で買ったのをモースはまるごと買って、あとで私たちに見せてくれたのである。
私はモースの人がらをしのんだ。なかにカラー写真があった。人工着色(人着)といって当時の人が着色したものだから色は鮮かで正確である。
写真と写真術の普及ぶりはご存じの通りである。写真はしばらく写真館の独占するところだったが、昭和十年前後から素人写真時代になって今に及んでいる。
写真信仰はこのころからまず警察に生じた。警察は私の弁解を信じない、逃れぬ証拠は写真だというようになった。弱年の私は人を『つかまえる人とつかまる人』に分けた。当然私はつかまる人で、よくまあ今日(こんにち)までつかまらないで無事で来られたと思う。
戦前の質屋にはお尋ね者の写真が貼ってあって、めでたく逮捕されるとバツじるしがつけられること今と同じだった。よくあんな写真一枚でつかまるなあ、世には『てっきり』と思う人がいて、てっきりあいつだと訴えて逮捕に至る、してみれば似ても似つかぬ情報がその何十倍何百倍寄せられたことだろう。
職掌がら警官は一枚々々はねのけてついに一枚にたどりつくのだが、それなら私もその一枚にまじっていたにちがいない。よく警官が訊問に来なかったと感心するのである。
警察に次ぐ写真信仰の極は医師である。ことに大病院は患者とロクに口をきかない。専門医をたらい回しにしてとるのは写真だけ、聴診も打診もお座なりで『はいお次』と十数枚の写真をとって何を見ているかというとガンである、心臓その他である。すべてカメラのなかなる臓器で、最後はそれを集めた主治医が総合して診断をくだす。そこには写される人はいても患者はいない。
たとえば私は食欲がない、なん年来眠れない、足がよろめくとする。それらが写真にうつるか。ホームドクターなら何十年来の馴染みである、この顔色はただごとでないと分るところが永遠に初対面である大病院の医師には分らない。
それはさておき今度は政治向きの話である。私は政治音痴で最も不向きな話で、いつも同じ例をあげるが社会主義と資本主義である。私有財産は盗みだとプルードンは言ったが名言である。その財産を奪うのは正義であり、善である。
奪ったものを貧しいものに公平に分配するのは善である。そのためにはあざむくのも殺すのも善であるから正義は最も悪しきものなのである、キャンペーンならみんな眉ツバなのである。
北朝鮮と韓国を見玉え。北朝鮮は韓国に向けて何本もトンネルを掘った。スワといえば攻めこめるトンネルで三十八度線下を毎日掘られて気がつかないとは迂闊(うかつ)である。韓国はくやしがって写真をとって世界中にばらまいたが、北朝鮮は平気である。南が自分で掘って北が掘ったと言いふらしているのだと言って、世界は北の言いぶんを信じる派と南を信じる派に分れていまだに分れている。
南京虐殺の写真も信じる人と信じない人に分れる。石井細菌部隊の人体実験をしている写真だと信じる派の新聞は大々的に報じたがこれはまっかな嘘だと分った。森村誠一がだまされた委曲を書いたからである。
写真館の写真にせよ素人写真にせよ、写真はすべて『やらせ』である。『はい、レンズを見て、すこし斜めになって、にっこりなさって』と写真館はことに見合写真には注文をつける。アマチュアだって同じことである。もういい加減で写真信仰は揺らいでもいいのにこれまた揺らぐ派と揺らがぬ派に分れるのである。
〔『文藝春秋』平成十一年二月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「『話しあい』というものはそもそも出来ないものだ、それを出来るように言いふらして信じさせたのは教育で、
教育には強い力があると言うと、どれどれ異(い)なことを言うと乗りだして聞いてくれる人と、てんから聞いてくれない
人にヒトはふた派に分れる。
この十年南京に大虐殺があったという派となかったという派が争っている。遅れて朝鮮人の慰安婦の強制連行があった
という派となかったという派が同じく争っている。互に証拠をあげて論じあっていつ果つべしとも思われないから、私は
読まない。読まなくても風のたよりでわかっている。
面倒くさいから手短かに言うと私は南京大虐殺なんかなかったと思っている。なかった派である。
南京は当時の首都である。時は昭和十二年十二月である。昭和十二年なら私はよく知っている。
事変が始まって半年も経ってない。これまで日清日露の戦いも満州事変も一年そこそこで終っている。
首都が落ちればこの事変は終る。大衆にとって戦争は儲かるものだったのである。
すでに失業率は激減している。各大学理工学部は全員売切れた。デパートに物資はあふれ、
カフエーバーダンスホールは満員で、この状態は昭和十四年まで続いた。
南京には従軍記者特配員文士画家が三百人近くいて記者は一番乗りを争っていた。
南京の人口は二十万人である。三十万殺せるわけはない。十万で累々たる死屍に足をとられた
はずなのに誰もとられてない。十年前なら従軍記者の過半は生きている。
新聞は連日大座談会でも開けばいいのに開かなかった。
新聞は大虐殺はあった派なのである。慰安婦の強制連行もむろん私はなかった派である。
あるはずがない、というのは昔から女衒(ぜげん)といって女を売買する商売人がいて、それにまかせて日本軍は
売笑婦の現地調達をしなかった。別に軍が道徳的であったわけではない。
『民』にまかせる発想しかなかった。貧しい女たちは身を売って大金をかせいで親もとに送った。
孝である。
そのもと慰安婦が三十年以上黙っていて今ごろ言いだしたのは、金が目あてである。
わが国の閣僚が強制はあったような発言をしたからである。
一人ならず何人も謝罪して言質(げんち)をとられている。
ブッシュ、クリントン両大統領も日本人記者に日本人に詫びる気はないかと問われ、毛頭ないと答えている。
原爆のことと察したからである。もし謝罪したら補償問題がおこるかもしれない。
アメリカ人に不利なことを大統領は言わない。ブッシュもクリントンも健康である。
自分の国の不利を招かないためにはサギをカラスというのが健康なのである。
いわんやありもしない強制連行をあったという閣僚は日本人ではない。
パンパンという言葉ならまだご記憶だろう。アメリカはわが国を占領するや否や直ちに政府を
通じて女を売買する商売人に元娼妓を集めさせた。慰安婦というから応募したら売笑婦だと分って怒って
帰る素人女もあったが、やむなくなった女もあった。
何事も慣れである。忽ち慣れて厚化粧して威張る女が多かった。
往年のパンパンの過半はまだ存命だろう。強制連行されて凌辱されたと訴えて出ないのは
彼女たちがモラルだからではない。相手にされないと知ってのことにすぎない。
日本はアメリカとは昭和二十六年、フィリッピンとは同三十一年、インドネシアとは三十三年、
以下国交回復と賠償を全部果している。韓国とはながい折衝の末昭和四十年『日韓基本条約』で
日韓の問題は『これをもって最終の解決とする』と大金を払って合意した。
もし蒸し返されたらそのつどこの条約をもちだして一蹴すればいいのにわが閣僚も新聞もしない。
それどころか陛下に謝罪の言葉がなかったと不服そうだから、若い読者にはこの条約の存在さえ知らないものが
ある。けれども『どうしてそんなに謝るの』と聞いてみるとうなずかない老若はない。
言い忘れたが北朝鮮は三十八度線下を韓国に向ってトンネルを何本も掘った。韓国は写真にとって世界中にばらまいたが、
北朝鮮はあれは韓国が掘ったものを北朝鮮が掘ったと言いふらしているのだと言って平気である。
論より証拠というけれど、この世は証拠より論なのである。
いかなる証拠をあげても大虐殺なかった派はあった派を降参させることはできない。
話しあいはできないのである。ここにおいて暴力が出る幕なのである。
暴力は自然なのである。正義は常に双方にある。
わが国には自衛隊があるという。あれは憲法違反であり税金ドロボーだった。国民の支持と敬意のない軍隊は軍隊ではない。
これだけ侮辱された自衛隊員の誰が国民のために死んでくれるか。
憲法九条を改めればいいのである。ドイツは四十三回、インドは七十四回、フランスは
十回改めている。改めることをタブーにしているのはひとりわが国だけである。
読売新聞は毎年憲法記念日に憲法改革試案を大々的に発表している。朝日新聞は
これを全く無視している。改憲論をタブーにする勢力はなお強力である。
私はわが国はアメリカの属国または植民地だとみている。共産圏は崩壊したがそれまで
わが進歩派にはソ連または中国の属国になって、直ちに改憲して軍隊を持つつもりの者どもがいた。
真の独立国になる気なんか当時も今もないのである。人は食える限り革命しない。
独立国だと自らあざむいて、私たちは半世紀枕を高くして寐ていたのである。
なお寐ていられるつもりなのである。
〔『文藝春秋』平成十年十月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。
「いま警察と政治家と芸人はやくざとは互に友だというと、とんでもない不祥事のように新聞は書くが、末端がやくざとつながっていなければよき情報は得られない。
テレビの銭形平次は樋口の旦那の手下ではあるが士分ではない。故に給金は樋口の旦那からもらう。年に二分(一分は一両の四分の一)かそこらだから、これでは下っ引ひとり雇えない。それでいて樋口の旦那も平次もりゅうとしたなりをしている。平次は町内の商家の旦那に養われている。大きな商家は盆暮れのつけ届けを怠らない。一旦もめごとがあると『平次を呼べ平次を』と呼びつけて事を内聞(ないぶん)にすませる。樋口は平次を、平次は下っ引を大事にしなければ捕物は出来ない。下っ引はやくざの改心したものだから、やくざの内情に通じている友である。町内の旦那方は表では親分親分と言っているが裏では『不浄役人』といってバランスをとっている。
その伝統は脈々と今日までつながっている。警察と芸人はやくざとつながっているというが当り前である、つながってなければ興業はできない。そんなことに新聞は正義を振回さないがいい。なぜ振回すかというと新聞の下っぱにはだれもリベートをくれないからである。袖の下をくれないからである。
故人田中角栄は新聞記者への土産に福田赳夫がサントリーを出すところを舶来の高価なウイスキーを出したそうだ。ほかにもつけ届けを怠らなかっただろうが、これしきのことでいま太閤、角さんとちやほやされた。
〔『諸君!』平成十三年三月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「荷風の人物は彼が好んで援用した儒教的モラルからみれば低劣と言うよりほかない。それなのに荷風は今も読まれこれからも読まれ、日本語があるかぎり読まれるのは、ひとえにその文章のせいである。その文章は『美』である。荷風は日本語を駆使して美しい文章を書いた人の最後のひとりである。おお、私は彼を少年のころから今に至るまで読んで、恍惚としないことがない。些々たるウソのごときケチのごとき、美しければすべては許されるのである。
〔Ⅱ『美しければすべてよし』昭57・9・16〕」
(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)