今日の「お気に入り」。
「 ある雨の日、私はスポンサーとの打ち合わせを終えると表に出た。傘を持っていなかったので、
地下街に降りた。雨やどりのために、一軒の本屋に入り、文芸雑誌を手に取った。そして一篇の
短編小説を立ち読みした。短い小説なのに、最後まで読み切れなかった。おもしろくなかったか
らである。突然、真実突然に、私は小説家になるぞと決心した。俺なら、もっとおもしろい小説
を書いてみせる。そう思ったのである。こんな病気にかかって、俺はもう廃人とおんなじだ。
サラリーマン生活をつづけていくことは不可能だ。ましてや一銭の資本もない俺には、焼きイモ
屋すら営むことは出来ない。小説家になるしか、もう俺には生きる道がない。若気の至りと病気
との成せる技である。私はあとさきも考えず辞表を書いた。どうして会社を辞めるのかと同僚に
訊(き)かれて、『小説家になるんだ』と答えたら、『宮本は気が狂った』と言われた。そのとお
り、私はそのとき気が狂ったのである。妻も子もある男が、何の蓄(たくわ)えもないまま、小説
家を志して会社を辞めたのである。気が狂ったとしか言いようがない。 」
( 宮本輝著 「命の器」 講談社文庫 所収 )
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