「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・07・30

2006-07-30 09:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「こういう思いを子供心にもたせた祖母はえらい人だといま思うのである。私はいまも何でもない使った物を捨てる気がせず、のこすくせがあって、物への異常な執着がある。これも祖母がくれたものかと思う。祖母は眼が見えぬから、手にさわったものを拾ってたしかめていた。村の道でも、家の中でも、破れ壁なので、雪がふきこんでくる寝所は、冬はいつもふとんはしめっていた。このように風のふき込むままに父が放置していたのは、あとで考えると、父の持ち物ではなく、地主の持ち物だった木小舎を、祖父が改造して家にしていたものを、父がうけついで住んでいるからだった。自分がいくら大工だからといってそれを修復しても他人の持ち物になる。地主にとられてしまう馬鹿らしさだったろう。これはごく自然な貧乏人の思いであって、早くどこかへ越すつもりでいた父にとっては、その引越しが思うようにゆかなかったこともあり、しょっちゅう母との争いになったらしかった。この親の事情を子供らは勝手に解釈し、破れ家に永遠に住まねばならぬかといったような思いを抱いて、父をのろったのである。いま六十歳になってふりかえると、風のふきこむ家もオツなものだった、と思う。うちの炉端はよその家より大きな火が燃えていた。というのは、金持の家や、電燈のある家は、火をたきすぎると、電球がすすけるし、衣類もよごれるので、焚き惜しみしていたのだが、うちは、半分は他人の破れ家でもあるし、そこにきれいな衣裳がかかっているわけでもないし、ともっている電球もないのだから煤けて困るものはない。それで、火を大きくたいて、周囲に子供らも父母も座をしめて煖がとれた。火をたくと本がよめる。こういう火を中心にした冬のぬくもりは、電燈のない家だけに、一家の集中度の濃さはどこよりもあって、私ら子供は、物もいわず、一夜じゅう父の焚く火を見ていたり、父がそのわきで細工物をつくったり、塔婆をつくったり、棺桶をつくったりするのを見て楽しんだ。こういう父の労働を、わきで見ながらくらす日の思い出はまだまだあるのだが、それらの一つ一つが、頑固なにくたらしい父の風貌とかさなって、温かく火のように、いま私をぬくめる。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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