今日の「お気に入り」は、昨日に続いて山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から同じテーマで。
「南京の虐殺は、すでに『東京裁判』でさばかれた事件である。中国側は途方もない人数が殺されたと主張し、日本側はその事実は
なかったと争ったかと思う。結局はほぼ十二万人を殺したときまったが、むろんこれは確かでない。勝った側がおしつけた数字だから、
実際より多いと思っていい。ところが、それから二十余年たって、今度は日本人自身が問題をむしかえして、進んで人数をふやして、
すくなくとも三十万は殺したと言いだしたのである。勇んで人数をふやすとは前代未聞の事である。健全な国民なら、自国民に不利な
ことは言うまいし、言ってもその国の新聞雑誌はとりあげないはずなのに、争ってとりあげるのは、これが中国に対して世辞になる
からである。
まだ中国が言わないうちに、その意を察して、さき回りして、たぶん気にいられるだろうと言うのなら、それは世辞である。
迎合である。中国人にとっては、殺された人数は多いほうがいい。敵愾心を鼓舞するには、被害者は多ければ多いほどいいから、自然に
人数は十万より二十万、二十万より三十万とふえるのである。
世間にはこういう屈折した迎合があるのである。ただし、これだけ屈折すると、読者は迎合だと気がつかない。額面通り読んで、
中国人にすまながる。夜も寝られぬという。
中国と沖縄とベトナムはつながっていて、夜も寝られぬ人は、沖縄を思っても、ベトナムを思っても同じく寝られぬという。
どうして寝られないのだろう。隣人の苦痛を苦痛とするからだという。けれども彼らは父祖の、兄弟の苦痛を苦痛としない。親は子を
育てるが、子は親を扶養しない。老いたら老人ホームへはいるがいい。老人ホームが少ないのは国のせいで、子のせいではない。
ホームにはいる金は、自分で用意しておけ。それがこれからの親のつとめである。用意の金は多いほどよく、余ったらそれは自分たちが
もらう。もらう分が多ければ今度は兄弟で相続を争う。(以下略)
この両親や兄弟の死に泣かないものが、赤の他人の死に泣いてみせ、泣かないものをとがめるのを、私はこれまで忍んできた。
この種の本が売れるのは、買えば自動的に良心と正義のかたまりになれるからで、私はたいがいのうそはがまんするが、このうそには
がまんできない。けれどもこの冷たいものがその自覚を欠いて、他を冷たいと難じることこそ、健康の証拠なのである。不健康という
ものは、もっといいものである。
ようやく健康に二種あることが分った。一つは昔ながらの健康、自分の非を認めまいとがんばる健康である。一つは勇んで認めて、
他をとがめる健康である。とがめて日本中を全部自分と共にとがめさせようとする魂胆なのである。彼らは日本人でいながら、
外国人に似ている。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
「南京の虐殺は、すでに『東京裁判』でさばかれた事件である。中国側は途方もない人数が殺されたと主張し、日本側はその事実は
なかったと争ったかと思う。結局はほぼ十二万人を殺したときまったが、むろんこれは確かでない。勝った側がおしつけた数字だから、
実際より多いと思っていい。ところが、それから二十余年たって、今度は日本人自身が問題をむしかえして、進んで人数をふやして、
すくなくとも三十万は殺したと言いだしたのである。勇んで人数をふやすとは前代未聞の事である。健全な国民なら、自国民に不利な
ことは言うまいし、言ってもその国の新聞雑誌はとりあげないはずなのに、争ってとりあげるのは、これが中国に対して世辞になる
からである。
まだ中国が言わないうちに、その意を察して、さき回りして、たぶん気にいられるだろうと言うのなら、それは世辞である。
迎合である。中国人にとっては、殺された人数は多いほうがいい。敵愾心を鼓舞するには、被害者は多ければ多いほどいいから、自然に
人数は十万より二十万、二十万より三十万とふえるのである。
世間にはこういう屈折した迎合があるのである。ただし、これだけ屈折すると、読者は迎合だと気がつかない。額面通り読んで、
中国人にすまながる。夜も寝られぬという。
中国と沖縄とベトナムはつながっていて、夜も寝られぬ人は、沖縄を思っても、ベトナムを思っても同じく寝られぬという。
どうして寝られないのだろう。隣人の苦痛を苦痛とするからだという。けれども彼らは父祖の、兄弟の苦痛を苦痛としない。親は子を
育てるが、子は親を扶養しない。老いたら老人ホームへはいるがいい。老人ホームが少ないのは国のせいで、子のせいではない。
ホームにはいる金は、自分で用意しておけ。それがこれからの親のつとめである。用意の金は多いほどよく、余ったらそれは自分たちが
もらう。もらう分が多ければ今度は兄弟で相続を争う。(以下略)
この両親や兄弟の死に泣かないものが、赤の他人の死に泣いてみせ、泣かないものをとがめるのを、私はこれまで忍んできた。
この種の本が売れるのは、買えば自動的に良心と正義のかたまりになれるからで、私はたいがいのうそはがまんするが、このうそには
がまんできない。けれどもこの冷たいものがその自覚を欠いて、他を冷たいと難じることこそ、健康の証拠なのである。不健康という
ものは、もっといいものである。
ようやく健康に二種あることが分った。一つは昔ながらの健康、自分の非を認めまいとがんばる健康である。一つは勇んで認めて、
他をとがめる健康である。とがめて日本中を全部自分と共にとがめさせようとする魂胆なのである。彼らは日本人でいながら、
外国人に似ている。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
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