今日の「お気に入り」は、大森荘蔵(1921-1997)著「流れとよどみ」より。
「人はえてしてことを一面相で整理したがるように見える。例えば知人の人柄をあれこれ品定めするとき。
彼は本当にいい奴なんだ、一見人付き合いは悪いけど本当は親切な男なんだよ、こうした評言はどこにいても聞かれる。
こうした言い方の中には、人には『本当の人柄』というものがあるのだが屢々それは仮面でおおいかくされている、
といった考えがひそんでいるように思われる。人を見る眼、というのもこの仮面を剥いで生地の正体を見てとる力だと
思われている。しかし、『本当は』親切な男が働いた不親切な行為は嘘の行為だといえようか。
その状況においてはそういう不親切を示すのもその親切男の『本当の』人柄ではなかったか。
人が状況によって、また相手によって、様々に振る舞うことは当然である。部下には親切だが上役には不親切、
男には嘘をつくが女にはつかない、会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする、こういった斑模様の振る舞い方が自然
なのであって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。
もししいて『本当の人柄』を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式が織りなす斑な
パターンこそを『本当の人柄』というべきであろう。そのそれぞれの行為のすべてがその人間の本当の人柄の表現
なのである。
普段はケチな男が何かの場合涙をのんで大盤振る舞いをしたとしても、それは演技でも仮面でもない。
それはその人間の涙ぐましい真剣な行為であり、その人の本当の人柄の現れなのである。
その演技にだまされたと言う人は何も嘘の行為にだまされたのではなく、その行為から誤ってその人は普段もおごり
好きだと思いこんだだけである。それは統計的推測の間違いであって、その大盤振る舞いが何かにせの行為であった
というのではない。
観世音菩薩も衆生済度のため様々な姿をとられた。六観音とか三十三観音とか。その多様な観音の本元は聖観音だと
いわれるが、だからといって他の観音がにせの観音だということにはなるまい。
その変化(へんげ)変身のいずれもが正真正銘の観音である。聖観音はただ、観音の基本形だというだけであって唯一
真実の観音だというのではないであろう。人間もまた済度のためではなくても生きるがために様々な姿を示すのである。
そのいずれの姿も真実の一片であり百面相の一面なのである。人の真実はどこか奥深くかくされているのではない。
かくそうにもかくし場所がないのである。その真実の断片は否応なく表面にむきだしにさらされている。
そしてそれらを集めて取りまとめれば百面相の真実ができあがるのである。
人の真実は水深ゼロメートルにある。」
(大森荘蔵著「流れとよどみ-哲学断章-」産業図書刊 所収)
「人はえてしてことを一面相で整理したがるように見える。例えば知人の人柄をあれこれ品定めするとき。
彼は本当にいい奴なんだ、一見人付き合いは悪いけど本当は親切な男なんだよ、こうした評言はどこにいても聞かれる。
こうした言い方の中には、人には『本当の人柄』というものがあるのだが屢々それは仮面でおおいかくされている、
といった考えがひそんでいるように思われる。人を見る眼、というのもこの仮面を剥いで生地の正体を見てとる力だと
思われている。しかし、『本当は』親切な男が働いた不親切な行為は嘘の行為だといえようか。
その状況においてはそういう不親切を示すのもその親切男の『本当の』人柄ではなかったか。
人が状況によって、また相手によって、様々に振る舞うことは当然である。部下には親切だが上役には不親切、
男には嘘をつくが女にはつかない、会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする、こういった斑模様の振る舞い方が自然
なのであって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。
もししいて『本当の人柄』を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式が織りなす斑な
パターンこそを『本当の人柄』というべきであろう。そのそれぞれの行為のすべてがその人間の本当の人柄の表現
なのである。
普段はケチな男が何かの場合涙をのんで大盤振る舞いをしたとしても、それは演技でも仮面でもない。
それはその人間の涙ぐましい真剣な行為であり、その人の本当の人柄の現れなのである。
その演技にだまされたと言う人は何も嘘の行為にだまされたのではなく、その行為から誤ってその人は普段もおごり
好きだと思いこんだだけである。それは統計的推測の間違いであって、その大盤振る舞いが何かにせの行為であった
というのではない。
観世音菩薩も衆生済度のため様々な姿をとられた。六観音とか三十三観音とか。その多様な観音の本元は聖観音だと
いわれるが、だからといって他の観音がにせの観音だということにはなるまい。
その変化(へんげ)変身のいずれもが正真正銘の観音である。聖観音はただ、観音の基本形だというだけであって唯一
真実の観音だというのではないであろう。人間もまた済度のためではなくても生きるがために様々な姿を示すのである。
そのいずれの姿も真実の一片であり百面相の一面なのである。人の真実はどこか奥深くかくされているのではない。
かくそうにもかくし場所がないのである。その真実の断片は否応なく表面にむきだしにさらされている。
そしてそれらを集めて取りまとめれば百面相の真実ができあがるのである。
人の真実は水深ゼロメートルにある。」
(大森荘蔵著「流れとよどみ-哲学断章-」産業図書刊 所収)