今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「美濃部都知事は、婦人票によって当選したと私は思っている。婦人の多くは、この人があらわれただけで動揺する。
したがって私は婦人に選挙権は与えないほうがいいという意見である。」
「都知事にも見識はあるだろうし、経綸もあるだろう。けれども、婦人たちがホルモンに動かされて投票し、見識に
動かされて投票しないならば、他を圧するその人気は望ましいものではない。
いつぞやの都知事選挙で、自民党は秦野章をたてて失敗した。ホルモンにはホルモンを、
と私は思っている。この人と争うなら、この人以上のホルモンをつれて来なければならない。
この発言が、もし選挙を冒涜するものなら、そもそも選挙に婦人を参加させたのがいけないのである。私の言うことは
理不尽に似ていて恐縮だが、世の中を動かしているのは、この理不尽なのである。
私は相性というものはあると思っている。いつぞや書いたことがあるが、小学生のとき私は担任の教師に憎まれた。
十歳の童児を四十を越した教師が憎むのは、大人気ないからかくしてはいるものの、憎いものは憎い。
私はホルモンのことを言いすぎたが、ホルモンに関係のない相性もある。今にして思えば、二人は相性が悪かったのである。
少年の私も、中年の教師も、共に苦しんだのである。生徒は先生を選べない。先生も生徒を選べない。
それは習慣にすぎない。私はこの習慣を破って、遠慮なく選ぶことに改めたほうがいいと思っている。
どこの会社の『部』にも『課』にも、上役と相性が悪い下役がいる。彼がそこに存在するだけで、上役はじりじりする。
それはおさえておさえ切れない理不尽な気持である。
それは大人と子供の間にもある。男と女の間にもある。男と女の間は、互に牽引するものがあるから一般にうまくいくが、
実は牽引するものが全くないと分ると、男と男の間より憎みあう。
その原因を当人たちは知らないことがある。知っていても言えないことがある。だから、その気持をかくして、
無いもののように振舞うが、それは誰にでもあるものだから、あると認めたほうがいいのである。
私案によれば、年に一度上役は下役を選ぶことができるようにする。そのときその席上で、上役はその下役を敬遠することが
許される。ただし、理由を言うことは許されない。相性が悪いというサインだけ出せばいいのである。
捨てる神があれば拾う神があって、一人が敬遠すると、一人が譲りうけてくれる。ついに誰も引受け手がない下役が残り
はしないかと、この案に反対する重役があるかもしれないが、その心配は無用である。
それは縁談に似ている。縁談というものはまとまるものである。結婚する意志さえあれば、売れ残るということはない
ものである。美男美女でなければ、話はまとまらないなら、この世は配偶者にあぶれた男女でいっぱいになるはずである。
だから、私は美濃部亮吉を下役にすることを、この会議の席上忌避する。理由は言わない。私は相性が悪いというサインを出す。
そうすると、この人を下役にすることに平気な人が、同じくサインして引受けてくれるのである。
美濃部亮吉の票はホルモン票だと私は書いたが、男子もまたさまざまで、美濃部亮吉がいやでない人がいるのである。
長谷川一夫がいやでない人がいるのである。
上役が下役を選ぶのである。先生が生徒を選ぶのである。これを毎年繰返すと、人事は円満になると思う。人は五年十年、
はなはだしきは一生がまんしなくてもよくなるからである。それでもバットで殴ったり、銃で撃ったりする下役がいる。
それは、いついかなる時代でもいる例外で、病人かきちがいだから仕方がない。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
「美濃部都知事は、婦人票によって当選したと私は思っている。婦人の多くは、この人があらわれただけで動揺する。
したがって私は婦人に選挙権は与えないほうがいいという意見である。」
「都知事にも見識はあるだろうし、経綸もあるだろう。けれども、婦人たちがホルモンに動かされて投票し、見識に
動かされて投票しないならば、他を圧するその人気は望ましいものではない。
いつぞやの都知事選挙で、自民党は秦野章をたてて失敗した。ホルモンにはホルモンを、
と私は思っている。この人と争うなら、この人以上のホルモンをつれて来なければならない。
この発言が、もし選挙を冒涜するものなら、そもそも選挙に婦人を参加させたのがいけないのである。私の言うことは
理不尽に似ていて恐縮だが、世の中を動かしているのは、この理不尽なのである。
私は相性というものはあると思っている。いつぞや書いたことがあるが、小学生のとき私は担任の教師に憎まれた。
十歳の童児を四十を越した教師が憎むのは、大人気ないからかくしてはいるものの、憎いものは憎い。
私はホルモンのことを言いすぎたが、ホルモンに関係のない相性もある。今にして思えば、二人は相性が悪かったのである。
少年の私も、中年の教師も、共に苦しんだのである。生徒は先生を選べない。先生も生徒を選べない。
それは習慣にすぎない。私はこの習慣を破って、遠慮なく選ぶことに改めたほうがいいと思っている。
どこの会社の『部』にも『課』にも、上役と相性が悪い下役がいる。彼がそこに存在するだけで、上役はじりじりする。
それはおさえておさえ切れない理不尽な気持である。
それは大人と子供の間にもある。男と女の間にもある。男と女の間は、互に牽引するものがあるから一般にうまくいくが、
実は牽引するものが全くないと分ると、男と男の間より憎みあう。
その原因を当人たちは知らないことがある。知っていても言えないことがある。だから、その気持をかくして、
無いもののように振舞うが、それは誰にでもあるものだから、あると認めたほうがいいのである。
私案によれば、年に一度上役は下役を選ぶことができるようにする。そのときその席上で、上役はその下役を敬遠することが
許される。ただし、理由を言うことは許されない。相性が悪いというサインだけ出せばいいのである。
捨てる神があれば拾う神があって、一人が敬遠すると、一人が譲りうけてくれる。ついに誰も引受け手がない下役が残り
はしないかと、この案に反対する重役があるかもしれないが、その心配は無用である。
それは縁談に似ている。縁談というものはまとまるものである。結婚する意志さえあれば、売れ残るということはない
ものである。美男美女でなければ、話はまとまらないなら、この世は配偶者にあぶれた男女でいっぱいになるはずである。
だから、私は美濃部亮吉を下役にすることを、この会議の席上忌避する。理由は言わない。私は相性が悪いというサインを出す。
そうすると、この人を下役にすることに平気な人が、同じくサインして引受けてくれるのである。
美濃部亮吉の票はホルモン票だと私は書いたが、男子もまたさまざまで、美濃部亮吉がいやでない人がいるのである。
長谷川一夫がいやでない人がいるのである。
上役が下役を選ぶのである。先生が生徒を選ぶのである。これを毎年繰返すと、人事は円満になると思う。人は五年十年、
はなはだしきは一生がまんしなくてもよくなるからである。それでもバットで殴ったり、銃で撃ったりする下役がいる。
それは、いついかなる時代でもいる例外で、病人かきちがいだから仕方がない。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
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