今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 昭和三十年ごろ私は銀座で精巧を極めたおもちゃの自動車を買ったことがある。手のひらにのせて
ためつすがめつすると実によくできている、蔵前のおもちゃ問屋はここまで回復したのだな。ボディ
の塗装も光り輝いて本物そっくりだと感嘆して、はたと思い当った。これは本物のミニアチュールだ。
これを人体がはいれるほどに大きくしたのがいま売出中の本物なのだな。
大人はいつまでたっても(死ぬまで)子供なのだ、渋々大人になったのだから、この豆自動車がみる
みる大きくなって、人がまるごとはいれたらどんなに嬉しかろう。そして手はハンドルをにぎるのだ、
足はアクセルを踏むのだ、それから高速道路に出てすいすいと進むのだ。ながい間とじこめられていた
大人のなかなる子供がようやく解放されたのだ。
ついでながら私は幼い時に見た『ままごと』を思いだした。薄べりを敷いて客を待つ少女は、仲良
の少女を待っている。『ごめん下さい花子さん。大変お寒くなりました。皆さん御機嫌いかがです』
『まあようこそ雪子さん』(以下略)という歌がある。『茶目子の一日』という童謡がはやったころ
共にはやった歌である。そこにある茶ぶ台、土瓶、湯呑などはみんなままごと用のミニアチュールで、
今なら洗濯機、キッチンなどを並べるところだと思って私は愕然としたのである。
大人であることというのは、あのままごとを等身大にすることなのだ。おもちゃの洗濯機を等身大
に大きくして、そこへ洗濯ものを放りこんでONにしさえすればいいのだ。明治大正時代のままごと
を人体に比例しただけなのだ。思い当ったのはこのことだった。今までは見れども見えなかったのだ。
テレビもカメラもパソコンも、おお軍艦もジェット機もみんなおもちゃだったのだ。おもちゃなら
我々は今後ともそれから出ようとしないだろう、いよいよ発明するだろうとこの時私は気がついたの
である。」
(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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