今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典
「 ウィキペディア 」掲載の記事「 山本周五郎 」から 。
適宜抜粋して引用する 。
引用はじめ 。
「 山本 周五郎( やまもと しゅうごろう 、1903年(明治36年)
6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日 )は 、日本の
小説家 。本名:清水 三十六( しみず さとむ )。質店の
徒弟 、雑誌記者 などを経て 文壇に登場 。庶民の立場から
武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説 、歴史小説
を書いた 。」
( ´_ゝ`)
「 経 歴
1903年(明治36年)6月22日 、山梨県北都留郡初狩村
( 現:大月市初狩町下初狩 )に生まれる 。父は 清水逸太
郎 、母は 『 とく 』( 旧姓・坂本 ) 。 周五郎は 長男( 弟の
潔 、義妹の 末子 がある ) 。本籍地は 北巨摩郡大草村(現:
韮崎市大草町 )で 、周五郎は 後に自らの出生地を同地と語
っている 。実家は 武田の遺臣で 、北巨摩の大草村若尾(現:
韮崎市大草町若尾 )に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀
の後裔であろうとの言い伝えもある 。
1907年(明治40年)、 山梨県では8月21日から降り続いた
大雨により 明治40年の大水害 が発生する 。大水害では 甲府
盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し 、郡内でも
初狩村が壊滅的被害を受けた 。周五郎の一家は 大月駅前に
転居していたため難を逃れるが 、大水害で 祖父の伊三郎 、祖
母の 「 さく 」 、叔父の粂次郎 、叔母の 「 せき 」 を失っている 。
大水害後 、一家は 東京府北豊島郡王子町豊島( 現:東京
都北区豊島 )に転居する 。
1910年(明治43年)、北豊島郡王子町豊島の 豊川小学校 ( 6 歳 )
に入学した 。8月10日 、荒川が氾濫して住居が浸水する大被害
を受ける 。同年秋から 神奈川県横浜市久保町( 現・神奈川県
横浜市西区久保町 )に転居 。西戸部小学校に転校した 。翌年 、
学区の編成替えで 横浜市立尋常西前小学校( 現:横浜市立
西前小学校 )2年に転学した 。この頃 、父は 繭の仲買を営んで
いた 。また 、輸入用麻製真田紐の巻き取り 、生糸の仲買 、小口
金融業 、小料理店 『 甲子屋 』 の経営 、三業組合書記などの職
を転々とした 。 4年生の時 、担任の先生から小説家になれ と励まさ
れ 、志望するようになった 。以来 、学校新聞の責任を命じられたり 、
6年生の時には 、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作ったりし
た 。自分で雑誌の表紙を描き 、扉絵には詩を付けたりした 。
( ´_ゝ`)
1916年(大正5年)、 横浜市立尋常西前小学校卒業 。卒業 ( 13 歳 )
と同時に 東京木挽町二丁目( 現:銀座二丁目 )にあった質店
きねや( 山本周五郎商店 )に徒弟として住み込む 。しかし 、1923
年(大正12年)9月1日の関東大震災によって 山本周五郎商店も
被災し 、一旦解散となる 。その後 、豊橋 、神戸 に転居 。
( ´_ゝ`)
神戸では『 夜の神戸社 』 へ編集記者として就職する 。
1924年(大正13年)、再び上京 。帝国興信所( 現:帝国デー ( 21 歳 )
タバンク )に入社 、文書部に配属 。その後 、帝国興信所の子会社
である 会員雑誌 『 日本魂』( にっぽんこん )の編集記者となる 。
1926年(大正15年・昭和元年)、 『 文藝春秋 』4月号の懸賞に ( 23 歳 )
投じた 『 須磨寺附近 』 が掲載され 文壇出世作となる 。なお 、ペン
ネーム 『 山本周五郎 』 の由来として 、 『 須磨寺附近 』 を発表する
際に 本人の住所 『 山本周五郎方 清水三十六 』 と書いてあったもの
を見て 、文藝春秋側が誤って 山本周五郎 を作者名として発表したと
いう説があるが 、以前にも 山本周五郎 をペンネームとして使用していた
形跡があり 定かではない 。しかしながら 雇主であった 店主の
山本周五郎は 、自らも洒落斎という雅号を持ち文芸に理解
を持っていた 。そのため 、周五郎 を文壇で自立するまで物心
両面にわたり支援し 、正則英語学校( 現:正則学園高等
学校 )、 大原簿記学校 にも 周五郎を通わせている 。
ペンネームには そのことに対する深い感謝の念が込められていた
と思われる 。また 『 山本周五郎 』 以外には 、俵屋宗八 、俵
屋宗七 、横西五郎 、清水清 、清水きよし 、土生三 、佐野
喬吉 、仁木繁吉 、平田晴人 、覆面作家 、風々亭一迷 、
黒林騎士 、折箸闌亭 、酒井松花亭 、参々亭五猿 、甲野
信三などを 用いたことが知られている 。
( ´_ゝ`)
文壇デビューしたものの順風満帆とはいかず 、原稿の掲載を断られ 、
山本周五郎商店からも援助を渋られるようになり 、失恋もあって精神
的にも 経済的にも 窮した 。こうした時期 、1928年(昭和3年)夏か ( 25 ~ 26 歳 )
ら翌年秋にかけての時期 、当時は 東京湾北岸の漁村だった 浦安 に
暮らした 。浦安時代は 、同地をモデルにした 『 青べか物語 』 に結実
するなど作品に大きな影響を与えている 。東京に移った後の 1930年 ( 27 歳 )
(昭和5年)、 病気で入院した 慶応義塾大学病院で知り合った看
護師見習の 土生きよえ( きよ江 )と結婚した 。
( ´_ゝ`)
1931年(昭和6年)、 文学仲間であった 今井達夫 に勧められ ( 28 歳 )
東京の馬込東に転居 。空想部落と称された 馬込文士村 の住人と
なる 。それまでは 博文館の 『 少年少女 譚海 』 を中心に少年探偵
物や冒険活劇を書いていた周五郎だったが 、尾崎士郎 、鈴木彦次
郎の両人の推輓で 講談社の 『 キング 』 に時代小説を書くようになっ
た 。当時の 『 キング 』 は 発行部数140万部と雑誌界の首位にあっ
た 。また 講談社には 時代小説を書くと決めていたらしく 、山本周五
郎のペンネームだけを使った 。
1936年(昭和11年)、 講談社から新進作家として扱われ 、同社 ( 33 歳 )
発行の 『 婦人倶楽部 』 『 少年倶楽部 』 『 講談倶楽部 』 『少女倶
楽部 』 などのほとんどの雑誌に作品が掲載されるほどの売れっ子とな
った 。また 博文館 も 周五郎の 『 大人向け 』 作品を掲載するように
なった 。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)、 『 婦人倶楽部 』 で各藩
の女性を扱う 『 日本婦道記 』( 6月から12月までの 7回掲載 )が
企画された 。周五郎は 3話( 『 松の花 』 『 梅咲きぬ 』 『 箭竹 』 。
全くの創作で架空の女性を描いている )担当し 、残りの4話( いずれ
も実在の人物で 、それなりの周知されている人物 )は 他の作家が担
当した 。なお 、『 日本婦道記 』 は 『 主婦之友 』 の 『 日本名婦伝 』
( 吉川英治 )に 倣ったものだという 。
1943年(昭和18年)、 第17回直木賞に 『 日本婦道記 』 が 選 ( 40 歳 )
ばれるが 辞退 。直木賞史上 、授賞決定後としては 唯一の辞退者と
なった 。辞退の理由として 、完全な仕事を目指した初版 『 小説 日
本婦道記 』 出版の前であったこと 、改稿以前の 『 婦人倶楽部 』版
が受賞対象になったことなどが挙げられる 。また 、 『 主婦之友 』 の
『 日本名婦伝 』 の著者で 、選考委員だった吉川英治の選評への反
発の可能性も指摘されている 。なお 、この頃 、周五郎の年間執筆数
の 約6割 - 7割 が 講談社の雑誌に掲載され 、その大半が 『 婦人
倶楽部 』 の 『 日本婦道記 』 であった 。この執筆が作家的飛躍に繋
がったと考えられている 。
米軍による日本本土空襲が激化すると 、周五郎は 隣組班長として
妻子だけでなく 住民の防空壕避難を指揮することもあった 。終戦直前
の 1945年(昭和20年)5月に 妻の きよえ が亡くなると 、本棚で棺
桶をつくり 弔った 。 ( 41 歳 )
1948年(昭和23年)、 旅館 『 間門園 』( 神奈川県横浜市中
区本牧間門51 付近 )を 仕事場とする 。
( ´_ゝ`)
1967年(昭和42年)2月14日7時10分 、間門園別棟で肝炎と心
臓衰弱のため死去 。享年65( 満63歳 )。 墓所は神奈川県鎌倉
市の鎌倉霊園 。戒名は 恵光院周嶽文窓居士 。 ( 63 歳 )
1988年(昭和63年)、 功績を記念し 、新潮社などにより 山本周
五郎賞 が創設された 。」
「 作 風
周五郎は元々 、純文学の作家を目指していた 。 しかし 、デビュー後は
劇作や童話、少女小説の執筆を主とし 、1932年(昭和7年)に大
衆色の強い講談社の雑誌 『 キング 』 に 「 だゝら團兵衛 」 を発表して
以降は 大人向けの 大衆娯楽雑誌を作品活動の舞台とするようにな
る 。そのため 、一般からは 大衆小説の作家 とみなされ 、新進 、中堅
時代には 純文学作家や批評家からはほとんど黙殺された 。だが 周五
郎は 純文学と大衆文芸との区別を認めず 、『 面白いものは面白い
し 、つまらないものはつまらない 』 という信念の下 、最大多数の読者を
対象とする小説を書き続けた 。
周五郎研究家の竹添敦子は 、純文学を志しながら 少年少女や大
衆向け雑誌が作品発表の場になっていることに葛藤を感じていた周五
郎は 、35歳頃を転機に 「 眞実の人間が書ければ 『 面白さ 』 は 附い
て来る 」( 『 愛妻日記 』 昭和13年11月22日付 )と達観するように
なり 、それは 妻きよえ の存在が 大きかったと分析している 。
作風は時代小説 、特に 市井に生きる庶民 や 名も無き流れ者 を描
いた作品で本領を示す 。また 、伊達騒動に材を求めた 『 樅ノ木は
残った 』 や 、由井正雪を主人公とした 『 正雪記 』 などの歴史小説に
も優れた作品がある 。
周五郎の小説に登場する人物は 、辛酸を嘗め尽くし 、志半ばで力
尽きてしまうものが少なくないが 、かれらに 、生きる上でのヒント
となる 、含蓄のある台詞を吐かせる 、というのも周五郎の作風
である 。
そうした周五郎作品の特徴を 『 聖書 』 に準えたのは 映画監督の篠
田正浩 。篠田は 周五郎が庶民の哀感のようなところにスポットを当て
たとする見方に対して 『 それは嘘です 。 あの人は庶民なんか信じてい
ないでしょう 。そういう読まれ方をされていることが 口惜しかったの
ではないですか 』 とした上で 周五郎作品に通底する 『 聖なるも
のといえる存在 』 を指摘 。 『 むしろキリスト教的な人間の 、この
世に聖なるものがなかったら人間は存在する理由がない 、 という
前提が 山本周五郎にはある 。聖なる心をいだいていながら 、汚
辱にまみれた世の中で 、まるで見えていないものを発掘するんです 。
だから 、でしょう 。 聖書のように書いているん
じゃないかな 、物語をね 』 と独自の周五郎像を披露している 。
また ハードボイルド作家の 生島治郎 は 『 樅ノ木は残った 』 は
ハードボイルド・タッチの作品であるとした上で 、 『 山本周五郎
自身 、かなり海外の小説を読んでいるんじゃないかな 。そういう
テクニックを使っているということですよね 』 『 おれは 彼がチャンド
ラーを読んでたような気がする 』 と これまた独自の周五郎像を
披露している 。さらに 生島は 周五郎作品が 通俗小説から脱
皮して 純文学作品に到達したという 周五郎の文学観にも反
するような評論がまかり通っていることに対して 、 「 どう考えても 、
山本周五郎氏の作品は純文学ではあり得ない 。私見によれ
ば 、上質な娯楽小説である 』 『 上質な娯楽小説を書こうと
努力している作者に対して 『 通俗小説から脱皮して 』 という
評価は 、純文学かぶれの半可通が讃め言葉と錯覚して口走
った世迷言にすぎない 」 と断じている 。 」
「 人 物
趣味は 、映画鑑賞 、読書 、酒を飲みに行くこと 。
好きな作家は 、ストリンドベリー 、ハウプトマン 、トルストイ 、
サローヤン 。
好きな酒は 、ワイン 、ウイスキー 。
好きな食べ物は 、肉類( 洋食系 )、チーズ 、蕎麦 。
一日に60本ぐらい煙草を吸っていた 。
文壇とは縁が薄く 、交友関係も狭かった 。しかし 少数の友人や編集
者と 、濃い人間関係を築いた 。
担当した雑誌編集者は数多いが 、その中では 、博文館の雑誌 『 少
年少女 譚海 』 の編集者で 後に名物編集長として知られた 井口長
次( 『 桃太郎侍 』 の山手樹一郎 の本名 )、朝日新聞社の担当
記者だった 木村久邇典 などが知られる 。特に 木村は 山本没後は
生涯にわたり 多くの評伝・作品研究を 20冊あまり著し 、 『 全集 』
( 新潮社 )、 『 全集未収録作品集 』( 実業之日本社 )を編
み 、埋もれた作品を発掘 、新潮文庫で再刊等を行った 。」
「 逸 話
山本の本名 『 三十六 』 は 、明治36年生まれであったことから来てい
る 。
尋常小学校の学生時分のこと 、国語の宿題に作文が課された 。その
作文に山本は 、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き 、提出し
た 。 翌日 、それぞれの作文が教室に掲示されると 、山本の作文に登
場する当の本人の某が 『 山本の作文は嘘だ 。俺は 山本と遊んだこと
などない 。』 と言い放ち 、室内が騒然となった 。詰め寄る級友たち
の前に 、なすすべもなく立ち竦んでいると 、担任がやってきた 。事の次
第を聞き及び 、文章を読み返した担任は 、 『 三十六( 周五郎の本
名 )。 こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい 。お前は 将来小説
家になれ 。 』 と言ったという 。
若い頃に 植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き 、何気なく 『 雑
木林 』 という言葉を使ったところ 、 『 どんな花にも 、どんな木にも
みな名前がある 。雑木林というのは 人間の作った勝手な言葉だ 。 』
と咎められた 。感心した山本は 、それ以降 、植物の名前を積極的に
憶えるようになった 。
山本は 、中原中也 や 太宰治 を高く評価していた 。代表作の一つ
『 虚空遍歴 』 の主人公である 中藤沖也 は 中原が モデルであると言
われている 。
ワイン好きであった山本が 『 これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似
ない 、これぞワインだ 』 と絶賛した国産の マデイラ・ワイン が 、生まれ
故郷でもある山梨県の中央葡萄酒から 『 周五郎のヴァン 』 として
販売されている 。
山本はウイスキーも好きであったが 、好んだのはサントリーホワイトで 、
最晩年にはサントリー角瓶を好んだ 。
代表作 『 樅ノ木は残った 』 執筆の前年まで睡眠薬のアドルムを常用
していた 。アドルムは 坂口安吾 も常用していて 中毒になっている 。夫
人が心配すると 『 自分は大丈夫だ 。自分の精神を自分で制御
できる者は 、薬の中毒やアルコール依存症にはならない 。 要するに 、
薬やアルコールに飲まれてしまうような 、心の弱い者が中毒患者に
なるそうだ 』 と答えた 。
山本は人間の心理描写に卓越する反面 、人嫌いで 人付き合いを
極端に制限し 、仕事場への訪問客にもめったに面会しなかった 。
座談はうまいのに講演は断り 、園遊会には出席せず 、文学賞と
名のつくものはことごとく辞退した 。
山本の生活は規則正しく 、51歳から晩年まで 仕事場で朝食は自炊
していた 。午前3時に起床 、朝食前に行水をし 、後始末に雑巾がけを
した 。午前10時まで仕事をし 、散歩をして 午前11時に昼食 。ざるそば
のつゆに生卵を入れた 。夜は原稿を書かず 、午後8時に就寝した 。
日本酒より洋酒を好み 、晩酌を欠かさなかった 。夜はかなりの量を食
べたが飯はあまり食べず 、 『 ふろあがりののんびりした体に 、めしを
詰め込んでげっぷをしながらでは 、 創造的精神ははたらかない 』
というのが持論であり 、 『 この国の広大な平野から 、でき得るだけ
でいい 、稲田を追放しよう 』 と述べ 、米を嫌っていた 。 編集者の
一人は 『 先生が亡くなられたら 、 お米がすごくうまいんです 。 もう
ストップをかける人がいないと思うと 、 つい食がすすみます 』 と本音
を言ったという 。
嵐山光三郎は 『 米は 、たぐいまれなる栄養食であり 、 米を主食と
する日本型食生活が日本人を世界最長寿にしたのであるけれど 、
このころは 、それを言う人は少なかった 。カロリーの高いものを食べ
すぎた結果 、周五郎は 63歳で死んだのである 』 と評している 。」
引用おわり 。
煙草 、晩酌 、肉食 、💊 、・・・ 、
なにごとも 、ほどほどに 。
ベジタリアン や ヴィーガン 見てても そう思う 。
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