「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・09・27

2013-09-27 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家』より。

「つい最近、兄から聞いた話によると、私が生れたころ、高円寺から阿佐ヶ谷、荻窪界隈の新興住宅地を、古くからの土地の人たちは《胴村(どうむら)》と呼んでいたそうである。横溝正史を連想するような気味の悪い名前である。その由来が、退役の軍人や役人、定年になった大学教授、そういった人たちの家が多かったからだと言われても、私にはよくわからなかった。それがどうして《胴村》なのだろう。答えを聞いて、私は笑ってしまった。首になって胴体だけになった人たちだというのである。退職金で手に入れ、年金で暮らすのに手ごろな住宅地だったのだろう。そう言えば、父に手を引かれて散歩にいった朝の天祖神社の境内で、そうした初老の人たちの姿をよく見かけた。茶色い犬を連れた半白の人や、鉢巻きをして体操をしている痩せた老人、賽銭箱の脇に腰を下ろして朝刊をゆっくり読んでいる人に、絵馬堂の前で絵馬を一枚一枚、丹念に眺めているステッキの人――あれが《胴村》の住人たちだったのである。
 そんな静かな人たちが多かったせいか、阿佐ヶ谷は子供たちにとってもいい町だった。すこし天沼に向って歩けば小さいけれど森があり、夏の日暮れには蜩(ひぐらし)が啼き、朝早く草の露を踏んでいくと木の洞(ほら)に鍬形(くわがた)虫や玉虫が眠っていた。森にはきっと花も咲いていたのだろう。足音を忍ばせて歩く私たちの頬を掠めて飛ぶのは、紫に輝く翅(はね)の揚羽蝶である。原っぱもあちこちにあったし、天祖神社や、世尊院(せそんいん)という尼寺の境内も自由に出入りできたので、私たちは遊び場所に事欠かなかった。ほかにも、人の棲んでいない空き家や、廃屋になっている元病院なんかもあって、私たちの毎日の《冒険》はヴァラエティに富んでいた。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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