今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「あれも嫌いこれも好き」から、
「サササー」と題した小文の一節。
「 蝶々は愛し、ゴキブリを憎んでいいのだろうか。
ゴキブリだって一生懸命生きているんだ。ヌレヌレと羽根を黒く光らせるまでに、一体どれくらいの危険を
くぐり抜けて生きて来たことだろう。しかし人間である私はでかい奴をつかまえるほど、ヤッタゼと思うの
です。ヤッタゼと思う私をあなたは残忍な女と思いますか。
でかい魚をかかえて、ニッカリ笑っているへミングウエイに世の男達はあこがれるではないですか。あの
でかい魚は一体人間に何の悪さをしたのでしょうか。人が生存するためにどうしても必要な食物として手に
入れたからへミングウエイはニッカリ笑っているのではない。
私が、クログロヌレヌレしたでかいゴキブリをつかまえた時の嬉しさと同じではないでしょうか。そりゃ、
私しゃ何の技術もないし危険もおかさないけどサァ、殺される側にすれば、関係ないと思います。短いか長
いかわからん一生を終えねばならぬ。そしてゴキブリの小さなお家をゴミ箱に捨てながら、次に生まれる時
はゴキブリでもいいが、このお家にだけは近づかないにサササーと一生懸命生きようと思います。とてもシ
ンプルな生涯のような気がする。やっぱり、人間で死ぬのが一番長く苦しい一生のような気がします。百年
も生きる動物、他にいるだろうか。そして地球に優しくなどとほざくが、地球の方から考えれば、人間が一
番の公害ダァ。五月になれば、小さなお家の屋根から中をのぞいて、ニンマリする私です。神は私をゆるす
でしょうか。」
(佐野洋子著「あれも嫌いこれも好き」朝日文庫 所収)