今日の「 お気に入り 」も 、今読み進めている本の
中から 、 備忘のため 、抜き書きした文章 。
引用はじめ 。
「『 人間とはふしぎなものだ 』と主水正が云
った 、『 悪人と善人とに分けることができ
れば 、そして或る人間たちのすることが 、
善であるか悪意から出たものであるかはっき
りすれば 、それに対処することはさしてむ
ずかしくはない 、だが人間は善と悪を同時
に持っているものだ 、善意だけの人間もな
いし 、悪意だけの人間もない 、人間は不
道徳なことも考えると同時に神聖なことも
考えることができる 、そこにむずかしさと
たのもしさがあるんだ 』
『 これは驚いた 』と津田大五が云った 、
『 なにを仰ろうというんですか 』
主水正はそっと溜息をつき 、遠い出来事
を思いだそうとするような口ぶりで云った 、
『 ずっと昔 、巳の年の騒動のときに 、
先代の滝沢主殿どのがその裁きに当って 、
―― 正しいだけがいつも美しいとはいえ
ない 、義であることが常に善ではない 、
と云われたそうだ 』
大五は徳利を取って見せた 、『 勝手に
飲ませてもらいますよ 』
『 六条図書とその一味は悪人でもなし 、
悪事をたくらんでいるわけでもない 』と
主水正は続けて 、穏やかに云った 、『 か
れらはかれらなりに 、家中の弊風を除き 、
政治を正(まさ)しくおこなおうとしたんだ 、
それは紛れもない事実なんだ 、しかし残
念ながら 、かれらが弊風と認めたものに 、
かれら自身も縛られてしまった 、ひとこ
とで云えば 、五人衆に代って上方資本の
導入をやったことだ 、家臣に対する御借
上げ金 、豪農 、富商に対する御用金 、
新らしい銭札の発行など 、みな御新政の
威力を示すための手段だった 、わが藩の
ように物成りが豊かで 、泰平安穏な年月
に慣れているところでは 、この手段はい
ちおう効果的だ 、反抗するまえにまず畏
縮してしまう 、打たれたことのない子供
が打たれると 、拳を見ただけで怯えるよ
うにだ 』
『 けれどもその拳に嚙みつく子だってい
ますよ 、たとえ相手が親であってもね 』
『 打ったあと親は 、たいてい菓子でも
やって打った理由を云い聞かせるだろう 、
だからこそ打つことも 、ときに子どもの
ため必要だと云えよう 』と主水正は続け
て云った 、『 しかしまた 、打つことに
慣れ打たれることに慣れる親子もある 、
御新政はそのかたちに似てゆくようだ 、
六条一味は権勢をにぎるために上方資本
を入れた 、それは便法だったが 、いま
はその上方資本にがっちりと縛りあげら
れ 、長い年月にわたって綿密に計画し
てきた政策を 、実行する自由さえ失っ
てしまった 』
『 それはどうですかね 』大五は湯呑で
冷酒(ひやざけ)を啜りながら云った 、
『 私には一味が 、綿密な計画などたて
てはいなかった 、というふうに思えて
きたんですがね 』」
「『 かれらは滝沢氏一派の 、三代にわた
る権勢を奪回しようとし 、周到にその
計画が練られたことは事実だ 』と主水
正が云い返した 、『 かれらは権勢の座
を占めるために 、松二郎さま擁立とい
う旗印をかかげ 、みごとにその望みを
達した 、私が云いたかったのはここの
ところだ 、私はかれらを私欲のために
藩政転覆を計った一味であり 、武家道
徳に反する悪人たちだと思った 、しか
し違う 』
主水正は眼をつむって 、そっと頭を
左右に振った 、『 政権はにぎったが 、
同時に資本力というものに縛られてし
まい 、卍屋一派の思うまま 、云うま
まにならざるを得なくなった 、寛政七
年の大火と 、同じ年に幕府から命ぜら
れた東照宮修築のため 、御恩借嘆願
という事があった 、資金調達のために 、
五人衆が上方の三家 、つまり鴻ノ池 、
三井 、難波屋から借りたことにし 、
実際は自分たちで調達したように拵えた
件だ 』
『 それはいつか聞きました 』
『 私はまだ若かったので 、五人衆を憎
み 、そんなに明白なからくりを見逃し
ている重職の人たちを憎んだ 、いまは
違う 、いまになって考えてみれば 、た
とえ五人衆が私腹を肥やしたとしても 、
その利得は領内にたくわえられていた 、
それが現在はどうか 、領内からあがる
農産業の利得は 、その大半を上方へ持ち
去られてしまうのだ 』
滝沢氏時代にあった重職と富商 、豪農
たちとのくされ縁は 、現在おこなわれ
ている御新政より 、はるかに藩家のおた
めにもなり 、藩の財政の安泰を保つこと
に役立っていた 、人も世間も簡単ではな
い 、善意と悪意 、潔癖と汚濁 ,勇気と
臆病 、貞節と不貞 、その他もろもろの
相反するものの総合が人間の実体なんだ 、
世の中はそういう人間の離合相剋(そうこ
く)によって動いてゆくのだし 、眼の前
にある状態だけで善悪の判断はできない 。
おれは江戸へ来て三年 、国許ではまった
く経験できないようなことをいろいろ経
験し 、国許には類のない貧困や悲惨な出
来事に接して 、人間には王者と罪人の区
別もないことを知った 、と主水正は云っ
た 。
『 失礼ですがね 』と大五が苦笑いをし
ながら遮った 、『 じつのところ私は 、
三浦さんのそういう話は聞きたくない 、
もっとはっきり云えば 、私には財政や
経済のことはわからないし 、わかりたい
とも思わない 、私はただ御新政という美
名に隠れたきたならしい陰謀を叩き潰す
こと 、悪人どもの追放と 、殿の安否を
慥かめること以外にはなんの興味も心配
もない 、ええ 、特にむずかしい話は
ごめんです 』
『 特にむずかしい話をしたつもりはな
いんだがな 』
『 気に障ったら勘弁して下さい 、私が
第一に聞きたかったのは殿の御動静です 』」
( 以下は 、主水正が 、下屋敷に幽閉されている
藩主 昌治を救出すべく意を決して 、津田大五
と庄田信吾を従えて 、下屋敷の臆病口の潜り戸
から屋敷内に入っていく場面 。)
「 主水正はもの悲しいような 、うらさびれた
感じにおそわれた 。これは盗みのようなも
のだ 、殿をここから救い出すことは 、おれ
たちにとって正しい 。けれどもこれは六条
一味の裏を掻くことになる 。不法に監禁さ
れている殿を救い出し 、ゆがんだ御新政を
改正することは 、領民ぜんたいに対する責
任ともいえよう 。だが六条一味も不正をお
こない 、私腹をこやすというだけでやった
仕事ではないだろう 。かれらにはかれらの
理想があるのだ 。将軍家がおのれの血のか
よっている者を 、大名諸侯の中へ移し入れ
ようとする 、それは昔から数えきれないほ
どしばしば 、もちいられた策謀である 。
それによって幕府がどれだけのものを掴み 、
望んだような実効をどれほど得ることがで
きたかどうか 。おそらく実際に役立った例
は極めて稀であろうが 、少なくとも幕府に
はそうすることが 、幕府の政体にとって必
要だと思ったから 、そういう方法をとった
のであろう 。六条一味はその幕府の権力を
背景に 、長い年月にわたって隠忍してきた
席を 、初めて自分たちのものにした 。そし
てその席を確保しようとしているのである 。
そのためにかれらは力と知恵のある限りを駆
使している 。そのこと自体に悪はない 。御
新政に多くの誤りはあるが 、誤りは現われた
結果であって 、六条一味が私利私欲に溺れた
ためではないだろう 。七万八千石の藩政が 、
私利私欲でやってゆける筈はないからだ 。長
い年月 、かれらは現在の席を待ち望んでいた 。
かれらはその席に坐った 。それをいまおれた
ちは転覆させようとしている 。これは紛れも
なく盗みだ 、と主水正は思った 。」
引用おわり 。
( ´_ゝ`)フーン