今日の「 お気に入り 」は 、どこかのサイトで見かけた お言葉 。
「 頑張ると 疲れる 。
疲れると 続かない 。」( タモリ )
( 筆者註 : 「 タモリ( 1945年〈 昭和20年 〉8月22日 - )は 、
日本のお笑いタレント 、テレビ司会者 。福岡県福岡市南区
市崎出身 。田辺エージェンシー所属 。
ビートたけし 、明石家さんま と共に 、日本の『 お笑いBIG3 』
の一角を担う 。本名は 森田 一義( もりた かずよし )。
1982年から 2014年まで『 森田一義アワー 笑っていいとも ! 』
で 司会を務め 、『 同一司会者により最も多く放送された生バラ
エティー番組 』として 、また 1984年から現在まで『 ミュージック
ステーション 』で司会を務めており 、『 同一司会者による生放送
音楽番組の最長放送 』として それぞれ ギネス世界記録 に認定され
ている 。 」
「 生い立ち
太平洋戦争終戦から一週間後の 1945年8月22日に 福岡県福岡市に
生まれる 。後に タモリ本人が 2018年5月25日放送の『 ブラタモリ 』
の番組内で語ったところによると 、本名の『 一義 』は 、祖父が
尊敬していたという 政治家・田中義一 から名前をもらおうとした
ところ 、上下の画数の差が大きく『 頭でっかちな子供になる 』と
いう理由で 上下ひっくり返して『 一義 』にしたものだと言われる 。
本人曰く 、幼少時代より大人びていて 、『 偽善 』という言葉を
知っていた と語っている 。幼稚園入園時期が迫り 、とある園に
見学に行った際に『 ギンギンギラギラ夕日が沈む( 童謡『 夕日 』
葛原しげる作詞・室崎琴月作曲 )』を 両手を回転させてお遊戯
している園児らを見て 、自分には出来ないと入園を拒否したと
いう エピソード がある 。
小学校入学に至るまで 、毎日 、一日中 坂道に立って 人間観察
を行っていたことから 坂道好きとなり 、後に『 日本坂道学会 』
を設立している 。」
「 少年時代
小学3年生のとき 、下校途中に 電柱のワイヤに顔をぶつけ 、
針金の結び目が右目に突き刺さって失明 。2ヶ月 休学して治療
したものの 、視力は戻らなかった 。 」
「 学生時代
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学し 、剣道部と吹奏楽部を両立して
トランペットを担当していた 。アマチュア無線クラブにも入って
いて 、船の無線通信士にもあこがれた 。さらに 居合道場 も通い 、
二段を取得した 。ファンであった地元球団・西鉄ライオンズ が身
売りをしたため 、野球への興味を失う 。
高校を卒業後 、1年間の浪人生活を送る 。大学浪人中は しばしば
押入れに篭り 、中国や韓国からのラジオ放送を長時間聴いていた
ことが 、『 4か国語マージャン 』などの『 インチキ外国語芸 』
へとつながった 。また 、座禅を組んで 極度の瞑想に近い経験を
したこともある 。
無線に興味があったため 電気通信大学 を目指したが 、物理が
克服できず 、1年間の浪人生活 を経て 、1965年に 早稲田大学
第二文学部 西洋哲学専修 へ入学 。
早稲田大学では モダン・ジャズ研究会 に在籍し 、高校時代から
引き続き トランペット を担当 。同期に 増尾好秋 、1年先輩に
は 鈴木良雄 らがいた 。しかし 、『 マイルス・デイヴィス の
ラッパは泣いているが 、お前のラッパは笑っている 』などの
批評を受け 、トランペット は 3日でやめてしまい 、代わりに
マネージャー と 司会 を担当することになった 。この時期に
付けられた ニックネーム が 、森田 を バンドマン読みとした
『 タモリ 』である 。
その後 、学生バンドの司会として TBSラジオ の番組『 大学
対抗バンド合戦 』に出演し 、司会の大橋巨泉から その才能を
認められている 。
大学2年次5月の連休に 、友人2人と旅行を計画し 、学費用
の仕送りを旅行用に一旦充てたが 返済されず 、自分の授業料
の支払いが滞ることとなり 、3年次に 学費未納のため 抹籍
処分となった 。」
「 大学を抹籍処分になった後も モダン・ジャズ研究会 の マネー
ジャー役を続行し 、バンドの司会などで かなりの収入を得て
いた 。しかし 、間もなく 叔父に福岡に引き戻され 、朝日生命
に 3年近く 保険外交員 として 勤務し 、2歳年上の同僚の女性
と結婚した 。その後 旅行会社に転職し 、系列の 大分県日田市
の ボウリング場支配人 に転属となった 。 」
「 家族・親族
・ 妻は 2歳年上の一般人で 、彼女自身の個人事務所の社長を
務めている 。OL時代に 保険外交員のタモリ と知り合い 、
1970年に結婚 。1981年に行われた 所ジョージ の仲人を
務め 、結婚披露宴に出席した以外は 、表舞台に ほとんど
登場しない 。親交のある 元ニッポン放送で フリーアナウ
ンサーの 上柳昌彦 は『 タモリの夫人 ということで 、いろ
いろ考えられるかもしれませんが 、至って普通の人 』と
語り 、『 話さないのは 奥様が至って普通で 面白くないから
では ? 』と分析する 。タモリ曰く『 自宅に 仕事とセックス
は持ちこまない 。仕事に 家庭は持ちこまない 』が信条とし 、
表舞台で 妻の話は ほとんどしない 。妻は 芸能界嫌い ( こ
のためタモリの仕事にも立ち入りせず 、仕事で帰りが遅く
なっても不満がらない )で 口数は少なく 、ブランド物にも
無頓着だという 。一方 、朝5時半に起床し 家事をしっかり
こなす妻のお陰もあり 、タモリは『 いいとも ! 』に遅刻を
しなかった 。自身が多忙であるため 、妻と一緒に居ること
は少なかったが 、2010年頃より 週末に国内旅行を共に行う
ようになった 。妻と世界一周旅行をすることが夢と語って
いる 。なお 、妻との間に子どもをもうけなかった理由に
ついて 、『 自分が子どもなので 親父になる責任が持てなか
った 』と述べている 。
・ 祖父・父とも満州からの引き揚げ者で 、共に 南満州鉄道に
所属し 、祖父は 火連寨駅 や 熊岳城駅 の 駅長を務め 、父は
満鉄の経理部 に勤務した 。日本に引き揚げ後は 、最初は
洋服の卸し をしたが 、その後 父は 三光汽船 に勤務した 。
母親は 3度結婚し 、子どもを6人もうけた 。祖父母に預
けられて育ったため 、父親とはあまり面会の機会がなく 、
良い印象も持っていない 。
・ 著名な親族として 、遠戚ながら 伊佐山ひろ子( 女優 、
作家 )がいる 。 」
以上 ウィキ情報 。 )