「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

越後屋 、お主も悪よのお Long Good-bye 2022・06・22

2022-06-22 07:09:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
   掲載の記事「 田沼時代 」「 田沼意次 」ほか から 。

   歴史は繰り返す 。
   「 第一世界 ( 米欧を中心とする『 自由・民主主義勢力 』 ) 」も 、
  「 第二世界 ( 『 中露の 専制主義・独裁勢力 + ならず者国家 ) 」も 、
  「 第三世界 」も 、・・・ ・ ・  歴史は繰り返す 。

   いつの時代も 、どこもかしこも 、オルガリヒ 。

   引用はじめ 。


  「 田沼時代(たぬまじだい)は 、日本の歴史( 江戸時代中後期 )において 、老中・
   田沼意次 が幕政に参与していた時期を中心とした 時代区分 。史学上は 宝暦・天明期
   ( ほうりゃく・てんめいき )として 、宝暦・明和・安永・天明期( 1751年-1789年 )、
   すなわち 享保の改革 と 寛政の改革 の間の 約半世紀の時代 を指す 。意次 が 権勢を
   誇った期間を基準とする場合には 、定義がいくつかあるが 、概ね 意次 が側用人職に
   昇格した 1767年( 明和4年 )から 意次が失脚する 1786年( 天明6年 )まで
と説明
   することが多い 。単に「 田沼期 」や「 田沼の改革 」「 田沼の政治 」といった呼ば
   れ方もある 。
    この時代の特徴として 通俗的には 伝統的な緊縮財政策を捨て 、それまで見られなか
   った商業資本の利用など 積極的な政策 を取ったとされている 。一方では 政治腐敗の
   時代 、暗黒時代 などとみなされ 、賄賂政治の代名詞 としても有名 。 」

  「 田沼 意次( たぬま おきつぐ )は 、江戸時代中期の旗本 、のち大名 、江戸幕府老中 。
   遠江相良藩の初代藩主( 相良藩 田沼家 初代 )。
   第9代将軍 徳川家重 と 第10代 家治 の治世下で 側用人と老中を兼任して幕政を主導し、
   この期間の通称である「 田沼時代 」に名前を残す 。

   出 生
    享保4年( 1719年 )7月27日 、紀州藩士から旗本になった 田沼意行の長男 として江戸
   の本郷弓町の屋敷で生まれる 。幼名は龍助 。父・意行 は 紀州藩の足軽 だったが 、部屋
   住み時代の 徳川吉宗 の側近 に登用され 、吉宗 が 第8代将軍 となると 幕臣 となり小身
   旗本となった 。吉宗 は 将軍就任にあたって 紀州系の家臣 を 多数引きつれ て幕臣 とし 、
   特に 勘定方 と 将軍および子供たちの側近 に 配置して 幕政を掌握 したが 、意次 は 紀州
   系幕臣の第2世代に相当し 、第9代将軍 となる 徳川家重 の 西丸小姓 として 抜擢 され 、
   享保20年( 1735年 )に 父の遺跡 600石 を継いだ

    父・意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し 、そして意次が生まれた 。そのため
   意次は七面大明神に感謝し 、家紋を七曜星に変更したといわれている 。

   人 物
    田沼は失脚前から既に悪評が出ており 、田沼の賄賂政治を皮肉って以下の狂歌が歌わ
   れた 。

    この上は なほ田沼るる 度毎に めった取りこむ 主殿 (とのも ) 家来も

    これは 、田沼も 家来も やたらと賄賂を取り立てることを皮肉った歌である 。当時 、
   田沼邸には猟官運動をする大名や直参旗本,幕府からの受注を願う商人達が朝から列
   をなしていたといわれている 。田沼失脚後に老中となった 松平定信 ら 譜代・親藩に
   よる寛政の改革が始まり 、意次の政策は否定される 。11代将軍 徳川家斉 の 大御所
   時代には 、水野忠友の子水野忠成と 、田沼意次の四男田沼意正らによる 大御所 家斉
   の浪費から生じた 重商主義的な経済状況 が生まれ 、家斉の浪費 によって 市場の経済
   の状況は上向いたが 賄賂政治が横行し 、幕府財政の破綻 、幕政の腐敗を招いた 。

    松平定信 は 庶民の着物の柄まで制限するほどの 質素倹約な方針 だったので 、良くも
   悪くも世俗的な田沼の治世を懐かしむ声もあった 。この時期流行った 落首 として 次
   の二つがある 。定信の就任当初は前者の歌が流行ったが 、やがて 改革が厳しすぎると
   して後者の歌に取って代わられた 。

    田や沼や よごれた御世を 改めて 清くぞすめる 白河の水

    白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき

    一方 、相良藩主としての田沼 は 、街道や港湾の拡張 、防火対策 、殖産興業 など
   きわめて正統的 で 当を得た藩政 を行っている 。
    また 、成り上がり者が威を振るうと反感を買うことを弁えており 、言動を謙虚に
   努めていた 。子孫に与えた遺訓の中でも『 親戚や席を同じくする大名と表裏なく
   親密に交際し 、家格の低い大名とも同じように接するべき 』『 家来に対しても
   できるだけ情けをかけ 、依怙贔屓のないように召しつかうように 』などと残して
   いる 。
    旧相良藩中にある 牧之原市 では 郷土の偉人 として扱われている 。相良城 が位置
   した場所に存在する 牧之原市立相良中学校 の 校章 は 、田沼意次の威光にあやかり
   田沼家の家紋である『 七曜紋 』をモチーフとしたものになっている 。また 、同校
   の体育大会と文化祭を総称して『 七曜祭 』と言う 。
    イェール大学のジョン・ホイットニー・ホールは Tanuma Okitsugu , 1719 - 1788 ,
   forerunner of modern Japan ( 1955 ) において『 意次は近代日本の先駆者 』と評価
   している 。 」

  引用おわり 。



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