「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

COMMITMENT かかわり Long Good-bye 2022・04・16

2022-04-16 05:55:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
    作家 村上春樹さんの経歴や40年超の文筆活動の紹介記事 。
   学園紛争が吹き荒れた1960年代後半の時期に学生生活を送った筆者と同じ団塊世代 。
   四 、五歳頃までは 、同じ土地の空気を吸って育ったような 。
   母親が大阪・船場の商家の娘であった 、というところも似ているような ・・・ 。
   タイトルに心惹かれることはあっても 、この有名作家の数多ある著作を一つも読んだことが
   なかったのは 、ひとつ違いの年齢のせい !? マスコミ露出が多いせい!?
   短編集「 女のいない男たち 」が初見の書なのは 、我ながら 驚きではある 。
   書店で手に取ってみるきっかけがなかった現代作家は他にも何人もいらっしゃるよう
   なのが 、もっと 驚き 。
   遅まきながら 、めいどの土産に代表作だけでもぼちぼち読んでみましょ 。キンドルで 。
   誰の為にもならないけれど 。

   ちょっと長いが 、引用はじめ 、備忘のため 。

  「 村上 春樹(むらかみ はるき、1949年( 昭和24年)1月12日 - )は 、日本の小説家・
   文学翻訳家。

   京都府京都市伏見区に生まれ 、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ早稲田大学在学中に
   ジャズ喫茶を開く 。1979年 、『 風の歌を聴け 』で群像新人文学賞を受賞しデビュ
   ー 。1987年発表の『 ノルウェイの森 』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベス
   トセラーとなり 、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる 。その他の主な作品に
   『 羊をめぐる冒険 』、『 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 』、『 ね
   じまき鳥クロニクル 』、『 海辺のカフカ 』、『 1Q84 』などがある 。

   日本国外でも人気が高く 、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ
   作家の一人と評している 。2006年 、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し 、
   以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている 。精力的に 、
   フィッツジェラルドやチャンドラーの作品などを翻訳 。また 、随筆・紀行文・ノン
   フィクション等も多く出版している 。


   経 歴
   生い立ち
   1949年 、京都府京都市伏見区に出生する 。親が甲陽学院中学校の教師として赴任
   したため 、まもなく兵庫県西宮市の夙川に転居 。父は京都府京都市蹴上安養寺住
   職の息子であり 、日中戦争に巻き込まれ 、それによって深くトラウマを負った 。
   母は大阪・船場の商家の娘であった 。また両親ともに高校の国語教師であり 、本
   好きの親の影響を受け読書家に育つ 。1955年に西宮市立浜脇小学校入学 。4年生
   の頃から 、急に本が好きになり 、ジュール・ヴェルヌや 、デュマの小説 、ホーム
   ズシリーズやルパンシリーズを読むようになった 。また 、娯楽がなかったため 、
   父・千秋に連れられ 、西部劇や戦争映画を見た 。西宮市立香櫨園小学校卒業 。芦
   屋市立精道中学校卒業 。

   1964年に兵庫県立神戸高等学校に進学 。この頃から 、国語教師であった父に『 枕
   草子 』や『 平家物語 』といった古典文学を暗唱させられ 、その反動で海外文学に
   興味を移す 。最初に読んだ長編小説は 、ショーロホフの『 静かなドン 』だった。
   この頃は 、ツケで本が買え 、親が購読していた河出書房の『 世界文学全集 』と
   中央公論社の『 世界の文学 』を一冊一冊読み上げながら10代を過ごした 。また
   中学時代から中央公論社の全集『 世界の歴史 』を繰り返し読む
。在学中には新聞
   委員会に所属し 、2年生の時には編集長も務めた 。

   1年の浪人生活ののち 、1968年に早稲田大学第一文学部に入学 、演劇専修へ進む 。
   在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり 、映画脚本家を目指してシナリオを
   執筆するなどしていたが 、大学へはほとんど行かず 、新宿でレコード屋のアルバ
   イトをしながら歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送る 。1970年代初め 、東
   京都千代田区水道橋にあったジャズ喫茶『 水道橋スウィング 』の従業員となった 。


   結婚とジャズ喫茶開業
   1971年10月 、高橋陽子と学生結婚したが 、子供は持たないようにした 。一時文
   京区で寝具店を営む夫人の家に間借りする 。二人は昼はレコード店 、夜は喫茶店
   でアルバイトをして250万円を貯めた 。さらに両方の親と銀行から借金し 、総額
   500万円を開業資金とした 。大学在学中の1974年 、国分寺駅南口にあるビルの地
   下でジャズ喫茶「 ピーター・キャット 」を開店( 場所は殿ヶ谷戸庭園のすぐ近く)。
   店名は以前飼っていた猫の名前から採られた 。夜間はジャズバーとなり 、週末は
   生演奏を行った 。

   1975年 、7年間在学した早稲田大学を卒業 。卒業論文は「 アメリカ映画における
   『 旅 』の思想 」でアメリカン・ニューシネマと『イージー・ライダー』を論じた 。
   指導教授は印南高一( 印南喬 )。1977年 、ビルの持ち主から増築を理由に立ち
   退くように言われ 、『 ピーター・キャット 』を千駄ヶ谷に移す 。

   1978年4月1日 、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦 、ヤクルト×広島を外野席の芝
   生に寝そべり 、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立つ 。それは
   1回裏 、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間
   のことだったという 。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら 、毎晩キッチンテー
   ブルで書き続けた 。


   デビュー 、人気作家となる
   1979年4月 、『 群像 』に応募した『 風の歌を聴け 』が第22回群像新人文学賞を
   受賞 。同作品は『 群像 』1979年6月号に掲載され 、作家デビューを果たす 。
   カート・ヴォネガット 、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を
   受けた清新な文体で注目を集める 。同年 、『 風の歌を聴け 』が第81回芥川龍之
   介賞および第1回野間文芸新人賞候補 、翌年『 1973年のピンボール 』で第83回
   芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる 。

   1981年 、専業作家となることを決意し 、店を人に譲る 。同年5月 、初の翻訳書
   『 マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集 』を刊行 。翌年 、本格
   長編小説『 羊をめぐる冒険 』を発表し 、第4回野間文芸新人賞を受賞 。1985年 、
   長編『 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 』発表 、第21回谷崎潤一
   郎賞受賞 。

   1986年10月 、ヨーロッパに移住( 主な滞在先はギリシャ 、イタリア 、英国 )
   1987年 、「 100パーセントの恋愛小説 」と銘うった『 ノルウェイの森 』刊行 、
   上下430万部を売る大ベストセラーとなる 。1988年 、『 羊をめぐる冒険 』の続
   編『 ダンス・ダンス・ダンス 』発表 。

   1989年10月 、『 羊をめぐる冒険 』の英訳版『 Wild Sheep Chase 』が出版された 。
   1990年 、米ザ・ニューヨーカーに短編「 TVピープル 」が翻訳掲載される 。
   これを皮切りに続々と短編が同誌に掲載され 、1993年には同誌と優先掲載の契約
   を結ぶ 。これが国際的な作家となる強力な足掛かりとなった 。

   1991年 、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米
   する 。前後して湾岸戦争が勃発 。『 正直言って 、その当時のアメリカの愛国的
   かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった 』とのちに述懐してい
   る 。翌年 、在籍期間延長のため客員講師に就任する 。現代日本文学のセミナー
   で第三の新人を講義 、サブテキストとして江藤淳の『 成熟と喪失 』を用いる 。

   『 デタッチメント 』から『 コミットメント 』へ
   1994年4月 、『 ねじまき鳥クロニクル 』第1部 、第2部を刊行 。 1995年6月 、
   アメリカから帰国 。同年8月 、『 ねじまき鳥クロニクル 』第3部を刊行 、翌年
   第47回読売文学賞受賞 。

   1996年6月 、「 村上朝日堂ホームページ 」を開設 。1997年3月、地下鉄サリン事件
   の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『 アンダーグラウンド 』
   刊行 。それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた村上が 、
   社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かせた 。1999年 、『 アンダー
   グラウンド 』の続編で 、オウム真理教信者へのインタビューをまとめた『 約束
   された場所で 』により第2回桑原武夫学芸賞受賞 。

   2000年2月 、阪神・淡路大震災をテーマにした連作集『 神の子どもたちはみな
   踊る 』刊行 。

   この時期 、社会的な出来事を題材に取るようになったことについて 、村上自身は
   以下のように『 コミットメント 』という言葉で言い表している 。

    「 それと 、コミットメント( かかわり )ということについて最近よく考えるん
    です 。たとえば 、小説を書くときでも 、コミットメントということがぼくに
    とってはものすごく大事になってきた 。以前はデタッチメント( かかわりの
    なさ )というのがぼくにとっては大事なことだったんですが 」「『 ねじまき
    鳥クロニクル 』は 、ぼくにとっては第三ステップなのです 。まず 、アフォリ
    ズム 、デタッチメントがあって 、次に物語を語るという段階があって 、やが
    て 、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです 。そこの部
    分で 、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね 。ぼくもま
    だよく整理していないのですが


   『 コミットメント 』はこの時期の村上の変化を表すキーワードとして注目され
   多数の評論家に取り上げられた 。阪神の震災と地下鉄サリン事件の二つの出来
   事について 、『 ひとつを解くことはおそらく 、もうひとつをより明快に解く
   ことになるはずだ 』と彼は述べている 。このため 、短編集『 神の子どもたち
   はみな踊る 』に収められている作品はすべて 、震災が起こった1995年の1月と 、
   地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いて
   いる 。

   2000年代の活動
   2002年9月 、初めて少年を主人公にした長編『 海辺のカフカ 』を発表する 。
   2004年にはカメラ・アイのような視点が登場する実験的な作品『アフターダ
   ーク』を発表する。

   2005年 、『 海辺のカフカ 』の英訳版『 Kafka on the Shore 』が『 ニューヨ
   ーク・タイムズ 』の " The Ten Best Books of 2005 " に選ばれ国際的評価の高
   まりを示した 。2006年 、フランツ・カフカ賞 、フランク・オコナー国際短編
   賞( Frank O'Connor International Short Story Award )と 、国際的な文学賞を
   続けて受賞 。特にカフカ賞は 、前年度の受賞者ハロルド・ピンター 、前々年
   度の受賞者エルフリーデ・イェリネクがいずれもその年のノーベル文学賞を受
   賞していたことから 、2006年度ノーベル賞の有力候補として話題となった 。
   同年の世界最大規模のブックメーカーである英国のラドブロークス ( Ladbrokes )
    のストックホルム事務所による予想では 、34倍のオッズが出され 18番人気に
   位置( 受賞は同予想で1位のオルハン・パムク )。2007年の同予想では11倍の
   オッズ 、6番人気とさらに評価を上げた 。また近年の年収は海外分が既に国内
   分を上回っており 、事務所の仕事量も3分の2は海外とのものであるという 。

   2008年6月3日 、プリンストン大学は村上を含む5名に名誉学位を授与したこと
   を発表した 。村上に授与されたのは文学博士号である 。

   2009年1月21日 、イスラエルの『 ハアレツ 』紙が村上のエルサレム賞受賞を
   発表 。当時はイスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されており 、この受
   賞については大阪の市民団体などから「 イスラエルの戦争犯罪を隠し 、免罪
   することにつながる 」として辞退を求める声が上がっていた 。村上は2月15日 、
   エルサレムで行われた授賞式に出席し記念講演( 英語 )を行う 。スピーチ内
   容は全文が直ちにメディアによって配信され 、それを日本語に翻訳した様々な
   文章がインターネット上に並んだ 。『 文藝春秋 』2009年4月号に村上のインタ
   ビュー『 僕はなぜエルサレムに行ったのか 』が掲載される 。スピーチの全文
   ( 英語と日本語の両方 )も合わせて掲載された 。なお授賞式では 、スピーチ
   の途中からペレス大統領の顔がこわばってきたのが見えたという 。

   2009年5月 、長編小説『 1Q84 』BOOK 1およびBOOK 2を刊行する 。同年11月
   の段階で併せて合計223万部の発行部数に達した 。同作品で毎日出版文化賞受賞 。
   同年12月 、スペイン政府からスペイン芸術文学勲章が授与され 、それにより
   Excelentísimo Señorの待遇となる 。

   2010年代以降の活動
   2011年6月 、カタルーニャ国際賞を受賞 。副賞である8万ユーロ( 約930万円 )を
   東日本大震災の義捐金として寄付する 。授賞式のスピーチでは日本の原子力政策を
   批判した 。

   2012年1月2日 、1月3日に放送された箱根駅伝のTVコマーシャルのナレーションを
   執筆した 。制作はサッポロビール 。監督は是枝裕和 。

   同年9月28日 、『 朝日新聞 』朝刊にエッセイ「 魂の行き来する道筋 」を寄稿した 。
   その中で 、日中間の尖閣諸島問題や日韓間の竹島問題によって東アジアの文化交流
   が破壊される事態を心配して 、「 領土問題が『 感情 』に踏み込むと 、危険な状況
   を出現させることになる 。それは安酒の酔いに似ている 。安酒はほんの数杯で人を
   酔っ払わせ 、頭に血を上らせる 。」「 しかし賑やかに騒いだあと 、夜が明けてみ
   れば 、あとに残るのはいやな頭痛だけだ 。」「 安酒の酔いはいつか覚める 。しかし
   魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない 。」と警告した 。

   2013年4月12日 、『 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 』を発表する 。
    2014年4月18日 、短編集『 女のいない男たち 』を発表する 。

   2015年1月15日 、期間限定サイト『 村上さんのところ 』を開設した 。同日から1月
   31日までの間に37,465通のメールが寄せられた 。4月30日に更新終了 。読者との
   やりとりは約3,500問に及んだ 。

   同年8月4日 、『 風の歌を聴け 』と『1 973年のピンボール 』の新訳英語版が Harvill
   Secker から出版された 。翻訳はテッド・グーセン 。

   2017年2月24日『 騎士団長殺し 』を発表する 。2020年7月18日短編集『 一人称単数 』
   を発表する 。2021年には 、ユニクロから 、関連するTシャツが販売され 、日本のみ
   ならず 、海外にも販売された 。また 、同年10月1日には 、早稲田大学4号館を改築し 、
   早稲田大学国際文学館( 通称『 村上春樹ライブラリー 』)が開館した 。『 村上春樹
   ライブラリー 』は 、建築家の隈研吾が村上の要望で設計を担当した 。

  ( 後 略 )
                                      」

  引用おわり 。




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