今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の「無想庵物語」から。
「けれども物を識ることは物を創ることとは別だと無想庵は知ったのだろう。物識りであるのを誇るようなことはもうなかった。ただ何とかして徳田(秋声)さんのような、島崎(藤村)さんのような小説が書きたいと一途に願って、それでいてまねはしたくない、新機軸を出したいというのだから天才がなければ出来ない相談である。
五尺七寸二十貫に近い希に見る美男で、その肉体は健康だったが、その精神は屈折に乏しいように私には見えた。谷崎(潤一郎)佐藤(春夫)をはじめ夥(おびただ)しい友にめぐまれ、ことに川田順は彼に助けられたことは一度もないのに、再三再四彼の危急を救った。辻潤は彼の何度目かの洋行のとき東京から京大阪まで追って別れを惜しんだ。
かくのごとき友情は近ごろ絶えて見ない。昔はあったというが、誰にでもあったわけではない。それだけの魅力があったのである。
私は武林に失敗した芸術家を見て、芸術家にして失敗しないものがあろうかと惻隠(そくいん)の情にたえないのである。これまで私は鈴木三重吉、嘉村礒多、中村正常以下多く追悼のコラムを書いて、戯れに追悼文作家と称したことがあるが、みんな知らない人ばかりである。起居を共にしたのはこの人ひとりである。いま死後二十余年を経て、私をしてこの長い追悼の辞を書かせたのは、ほかでもないこの人の力である。」
(山本夏彦著「無想庵物語」文藝春秋社刊 所収)
「けれども物を識ることは物を創ることとは別だと無想庵は知ったのだろう。物識りであるのを誇るようなことはもうなかった。ただ何とかして徳田(秋声)さんのような、島崎(藤村)さんのような小説が書きたいと一途に願って、それでいてまねはしたくない、新機軸を出したいというのだから天才がなければ出来ない相談である。
五尺七寸二十貫に近い希に見る美男で、その肉体は健康だったが、その精神は屈折に乏しいように私には見えた。谷崎(潤一郎)佐藤(春夫)をはじめ夥(おびただ)しい友にめぐまれ、ことに川田順は彼に助けられたことは一度もないのに、再三再四彼の危急を救った。辻潤は彼の何度目かの洋行のとき東京から京大阪まで追って別れを惜しんだ。
かくのごとき友情は近ごろ絶えて見ない。昔はあったというが、誰にでもあったわけではない。それだけの魅力があったのである。
私は武林に失敗した芸術家を見て、芸術家にして失敗しないものがあろうかと惻隠(そくいん)の情にたえないのである。これまで私は鈴木三重吉、嘉村礒多、中村正常以下多く追悼のコラムを書いて、戯れに追悼文作家と称したことがあるが、みんな知らない人ばかりである。起居を共にしたのはこの人ひとりである。いま死後二十余年を経て、私をしてこの長い追悼の辞を書かせたのは、ほかでもないこの人の力である。」
(山本夏彦著「無想庵物語」文藝春秋社刊 所収)