昨日は好天に誘われて横須賀までぷらぷら散歩に出かけました。まずは京急久里浜駅で下車し、20分ほど歩いて久里浜港へ。
久里浜と千葉・金谷を結ぶ東京湾フェリーです。砂浜ではBBQを楽しむ人たちで一杯でした。
近くのペリー公園でのペリー上陸記念碑。正確には、大勲位侯爵伊藤博文の筆による「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」であります。ペリーは浦賀に来る前に、伊豆・下田に上陸しているんですが、実は殿は1月の観音温泉無料ご招待の際に、下田の記念碑にも訪れています。
その模様はこちら。
せっかくなので、公園内のペリー記念館を覗くことにしました。
入り口わきのペリー提督像。
同じく、交渉のカウンターパートナーを務めた戸田伊豆守の像も。
黒船、蒸気船4隻の様子。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」という、幕末の嘉永6(1853)年、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れた時の混乱を「上喜撰」というお茶と「蒸気船」に掛けた落首がすぐ浮かびました。
上陸の様子。
同じくその模様を伝える新聞記事。(2006年復刻(再現記事)です、勘違いしないでね)
教科書などでよく見かけましたよね、この写真。
久里浜港に注ぐ小さな川に架かった橋、開国橋。これから、浦賀港にそって浦賀駅まで歩くことにしました。
これでやっと半分くらいかな。下田港の風景と似ているように感じるのは気のせいでしょうか。
今も現役、浦賀の渡船。
ポンポン船の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルになっている渡船は、港に隔てられた東西の浦賀の町を行き来する人にとって、大切な交通手段です。時刻表は無く、渡船が対岸にいるときは、呼び出しボタンを押すと、すぐに来てくれます。約3分ほどの船旅ですが、浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを海から眺めることができます。
渡船は、浦賀に奉行所が置かれてまもない享保10年(1725年)ごろから始まる長い歴史を持っています。江戸時代には、船が1艘で船頭さんが2人。この船頭さんの生活と船の維持管理は、東西浦賀の人々や、鴨居や久里浜などの近隣の方の協力を得て、まさに生活に欠かせない船でした。
昭和18年4月、浦賀町が横須賀市と合併して、渡船も横須賀市からの委託経営となり、昭和30年代後半には機械化された船による航行となりました。現在の船(愛宕丸)は、平成10年8月9日に就航しました。それまでの木造船から大型化し、江戸時代の「御座船」をイメージしたFRP(強化プラスチック)製の船になっています。
ちなみに、渡船の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の市道(2073号線)です。 利用料金:大人150円、子供50円。(以上、ウンチク)
浦賀港から沖合の千葉・房総半島を望む。
やっと浦賀駅に着きました。およそ1時間のウォーキングでした。同行者が途中で路線バスに逃げたので、後半は一人旅でちょっとへばっちゃいました。
浦賀駅ホームの赤い京急電車。これから横須賀中央に向かいます。
10分足らずで、横須賀中央駅に着きました。
駅前のペデストリアンデッキ、通称Yデッキ。
横須賀には米軍のほか、海上自衛隊、陸上自衛隊及び少年工科学校、そして防衛大学校などがあるため、土地柄こんな制服姿によく出くわします。
記念艦三笠と東郷元帥像
三笠公園は、岸壁には記念艦三笠が保存されているほか、東郷平八郎連合艦隊司令長官の銅像、大和型戦艦の砲弾も付近に展示されている。なお、三笠の艦首は皇居へ向けられており、さらにそのまま直線状にロシアへ向けられている。これは保存時に三笠が帝国海軍の象徴とされていたことと、日露戦争からいつまでもロシアのほうを覗いていることから。そのために終戦直後に三笠はソビエト連邦 (当時)から解体の声が上げられたが、交渉等によってそれは回避されたそうです。(ウンチク)
日清戦争で捕獲され、日露戦争では日本軍艦として活躍した、鎮遠の砲弾です。
三笠公園(戦艦三笠保存地)から東方約1.75km沖合に浮かぶ無人島の猿島です。面積 約0.055km2、周囲 約1.6km、標高 最高39.3m。
横須賀と言えば当然、海軍カレーであります。
帰宅後、万歩計を確認したら、ちょうど20,000歩、約14kmの散歩ということになりました。
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P.S.
5/1に続いて、昨日2日もランクインしました。12/3から151日間で、142回ランクインしたことになります。140万ブログ中の3,449位で、通算187度目、訪問者数247名(累積 55,991名)でした。みなさん、どうもありがとう。(目障りでしょうが、殿の記憶のためのメモです)