日本出身の神様はただ1人、七福神のミステリー。(以下、日経ライフから一部抜粋)
『 幸福をもたらしてくれる神さまを1神ずつ参拝して回る「七福神めぐり」。恵比寿(えびす)、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)、福禄寿、寿老人、布袋(ほてい)、弁財天の7体は日本の正月に欠かせない存在だ。中世の民間信仰から広まったものだが、この中で日本出身は恵比寿さまただ1人。あとは海外から招来した神さまたちだ。
■夷、戎、蛭子、恵比寿…みな「えびす」
恵比寿さま
恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」などの漢字でも表記される。蛭子(ひるこ)は「古事記」「日本書紀」に出てくる国造りの神「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」の子供とされる。しかし3歳になっても自分で立つことができなかったため葦(あし)の船に乗せて海に流されたという。七福神にしては気の毒な前半生だが、その後漁民に大漁をもたらす「エビス」として戻ってきたとされる。キーワードは「海」だった。
漁民たちには時折浜に打ち上げられる鯨やサメなどを神さまからの授かり物として受け止める習わしが古くからあったという。皆で分け合い一時の「福」を得る。流された蛭子が海人たちに漁業や交易、交通などの神、恵比寿さまとして敬われる素地は古くからあった。かつて海は陸上よりも発達した交通路だった。恵比寿さまを祭る神社は瀬戸内海や日本海の海岸線などに散在する。遠方から福を運んできてくれる寄神、客神(まろうどがみ)と信仰を集めてきたようだ。
日中印の神々の連合体
大黒天はインドの「マハーカーラ」と日本の大国主命が習合した。マハーカーラは「偉大な黒」を意味し、ヒンズー教で暗黒をつかさどる神さまだった。日本に持ち込んだのは最澄という。同時に財運をもたらす神として信仰され、日本では財神として渡ってきた。大国主神は古事記の国譲りのエピソードで知られる重要な神さまで、「だいこく」ともに読めたことから合体したという説が有力だ。
毘沙門天も元来はインドの財宝神「クベーラ」だったという。この神さまが中国を経由する時は仏教を守護する四天王に変わる。日本でも戦国時代の上杉謙信が信仰していたことで知られている。だから七福神を乗せて航海する「宝船」では唯一甲冑(かっちゅう)をまとっている。日本では改めてクベーラの性格が重視された。唯一の女神、弁財天もインド由来。ヒンズー教で水と豊穣(ほうじょう)の神さま「サラスバティー」だ。音楽もつかさどるほか悪神を退治する戦いの神さまでもある。
福禄寿と寿老人は中国・道教がルーツの仙人。この福禄寿と寿老人は南極星の化身として双子とも同一人物ともされ、ややこしい。
■「七福神めぐり」普及させたのは家康?
その点布袋は中国・唐の時代に実在した仏僧だという。契此(かいし)という名で、太鼓腹を突き出し常に大きな布の袋を背負っていた。弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と噂されていたという。最初に日本に入ってきたのは禅画などの画題としてだった。平安期には恵比寿と大黒天とが信仰の対象となり、さらに毘沙門天、弁財天らが加わっていった。「7」神になったのは仏教経典の「七難即滅、七福即生」にちなんだともいう。
七福神の乗った船
「七福神」めぐりが全国に普及したのは江戸時代から。徳川家康が七福神の絵を狩野探幽に宝船に乗った七福神を描かせたという。家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている。恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し敬愛すれば7徳が身に備わるというわけだ。
なぜこれだけ外国の神さまが多いのか。恵比寿さまも異邦人を意味する「夷」とも書かれてきたように七神とも「海」に縁が深い。理由の一つは古代からの漂着物信仰だ。日本人にとって海のかなたは福と富を運んできてくれるものだった。
もう一つは室町時代に発展した貨幣経済だろう。商業が盛んになるにつれ天照大神のような日本神話の神さまや貴族階級の氏神さまではなく、商工業者の信仰の対象が必要になったのだろう。「七福神の謎77」の武光誠・明治学院大教授は「最初は豪商が、武士や旧家が祭る神さまと異なる福の神を自分たちの心のよりどころとして信仰した。すぐさま豪商にあこがれる中流以上の商工民に広がっていった」としている。
兵庫県の西宮神社は恵比寿さまを祭る神社の総本山。毎年1月10日を中心に9日から11日までの3日間行われる「十日えびす」は100万人を超える参拝客でにぎわい、その年の福男を決める行事でも知られている。七福神巡りは不況の時に参拝客が多いという。アベノミクス効果が浸透しつつも消費増税を前にした今年の正月はどうなっているだろうか。 』
貧乏神?
『 幸福をもたらしてくれる神さまを1神ずつ参拝して回る「七福神めぐり」。恵比寿(えびす)、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)、福禄寿、寿老人、布袋(ほてい)、弁財天の7体は日本の正月に欠かせない存在だ。中世の民間信仰から広まったものだが、この中で日本出身は恵比寿さまただ1人。あとは海外から招来した神さまたちだ。
■夷、戎、蛭子、恵比寿…みな「えびす」
恵比寿さま
恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」などの漢字でも表記される。蛭子(ひるこ)は「古事記」「日本書紀」に出てくる国造りの神「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」の子供とされる。しかし3歳になっても自分で立つことができなかったため葦(あし)の船に乗せて海に流されたという。七福神にしては気の毒な前半生だが、その後漁民に大漁をもたらす「エビス」として戻ってきたとされる。キーワードは「海」だった。
漁民たちには時折浜に打ち上げられる鯨やサメなどを神さまからの授かり物として受け止める習わしが古くからあったという。皆で分け合い一時の「福」を得る。流された蛭子が海人たちに漁業や交易、交通などの神、恵比寿さまとして敬われる素地は古くからあった。かつて海は陸上よりも発達した交通路だった。恵比寿さまを祭る神社は瀬戸内海や日本海の海岸線などに散在する。遠方から福を運んできてくれる寄神、客神(まろうどがみ)と信仰を集めてきたようだ。
日中印の神々の連合体
大黒天はインドの「マハーカーラ」と日本の大国主命が習合した。マハーカーラは「偉大な黒」を意味し、ヒンズー教で暗黒をつかさどる神さまだった。日本に持ち込んだのは最澄という。同時に財運をもたらす神として信仰され、日本では財神として渡ってきた。大国主神は古事記の国譲りのエピソードで知られる重要な神さまで、「だいこく」ともに読めたことから合体したという説が有力だ。
毘沙門天も元来はインドの財宝神「クベーラ」だったという。この神さまが中国を経由する時は仏教を守護する四天王に変わる。日本でも戦国時代の上杉謙信が信仰していたことで知られている。だから七福神を乗せて航海する「宝船」では唯一甲冑(かっちゅう)をまとっている。日本では改めてクベーラの性格が重視された。唯一の女神、弁財天もインド由来。ヒンズー教で水と豊穣(ほうじょう)の神さま「サラスバティー」だ。音楽もつかさどるほか悪神を退治する戦いの神さまでもある。
福禄寿と寿老人は中国・道教がルーツの仙人。この福禄寿と寿老人は南極星の化身として双子とも同一人物ともされ、ややこしい。
■「七福神めぐり」普及させたのは家康?
その点布袋は中国・唐の時代に実在した仏僧だという。契此(かいし)という名で、太鼓腹を突き出し常に大きな布の袋を背負っていた。弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と噂されていたという。最初に日本に入ってきたのは禅画などの画題としてだった。平安期には恵比寿と大黒天とが信仰の対象となり、さらに毘沙門天、弁財天らが加わっていった。「7」神になったのは仏教経典の「七難即滅、七福即生」にちなんだともいう。
七福神の乗った船
「七福神」めぐりが全国に普及したのは江戸時代から。徳川家康が七福神の絵を狩野探幽に宝船に乗った七福神を描かせたという。家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている。恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し敬愛すれば7徳が身に備わるというわけだ。
なぜこれだけ外国の神さまが多いのか。恵比寿さまも異邦人を意味する「夷」とも書かれてきたように七神とも「海」に縁が深い。理由の一つは古代からの漂着物信仰だ。日本人にとって海のかなたは福と富を運んできてくれるものだった。
もう一つは室町時代に発展した貨幣経済だろう。商業が盛んになるにつれ天照大神のような日本神話の神さまや貴族階級の氏神さまではなく、商工業者の信仰の対象が必要になったのだろう。「七福神の謎77」の武光誠・明治学院大教授は「最初は豪商が、武士や旧家が祭る神さまと異なる福の神を自分たちの心のよりどころとして信仰した。すぐさま豪商にあこがれる中流以上の商工民に広がっていった」としている。
兵庫県の西宮神社は恵比寿さまを祭る神社の総本山。毎年1月10日を中心に9日から11日までの3日間行われる「十日えびす」は100万人を超える参拝客でにぎわい、その年の福男を決める行事でも知られている。七福神巡りは不況の時に参拝客が多いという。アベノミクス効果が浸透しつつも消費増税を前にした今年の正月はどうなっているだろうか。 』
貧乏神?