先日録画したピカソのドキュメンタリー。本筋とは関係ないのだが「(ピカソは)フランス語が完璧ではないので、人前ではあまり喋らなかった」という話が気になった。特にアーティストやスポーツ選手などスペシャリスト的な人たちの場合、ある局面では、言葉のハンデがもたらすものがあるんじゃないだろうか。
ピカソだけではなく、母語がドイツ語で英語が完璧というわけではなかったピーター・ドラッカーや、大リーグで活躍する英語圏以外の出身の野球選手の活躍など、その視点で見ていくとちょっと興味深い。
もちろん言語によるコミュニケーションがスムーズにできることは素晴らしいし、また、「言葉じゃ伝わらないものがある」なんて思考停止に陥るつもりもない。ただ、ある種のハンデは、別のアウトプットにつながる可能性もあると思うのだ。
でも当然ながら、発信されるべき思想やアイデア、パフォーマンスを持ち得た者だけが実現できること。種蒔き前の土にいくら水をやっても何も生えてこないしね。
ところで、もしピカソのフランス語が「完璧」だったら、何かが違っていたのだろうか?作品への想いや意図を、もっと語ってくれたとか……というか、あの多彩な恋愛遍歴が、さらに壮大なものになっていたのかもしれないなぁ。