朝日新聞の連載小説、夏目漱石「こころ」を読み終えて、
私が思春期の一時期、漱石の本を読み漁り、そして、パタリと止めてしまった理由が分かりました。
そこに描かれているのは、インテリの男性の内気な心模様で、
これらについては「なるほど」と肯き、その的確さに唸るようですが、
女性の心は、ほとんど描写されていないので、女性の私は感情移入しずらいのです。
しかも、男性たちは「頭でっかち」に理屈をこね、
私、登場人物と出会っても、恋愛対象になりません。
まあ、その時代、知的階層の人々は、恋愛結婚より見合いが主流でしょうから、
世相を描き、その時代の心を表している、その点では興味深く読みました。
「先生」が妻を娶るまでの経緯と、この女性に恋した親友Kの自殺が、先生の遺書に記されますが、
親友Kの恋心を知りながら、女性を妻にすべく「先生」が先手を打ったことが引き金となってKは自殺し、
先生は罪悪感を抱えて生き、ついには自殺を遂げます。
私は、女性ですから、わずかに描写される、妻となる女性の視点で考えるのです。
この女性は、およそ親友Kを結婚相手に選ぶとは思えません。
先生が行動を起さずに、親友が先にプロポーズしたところで、
この女性とその母親、やんわりと、きっぱりお断りしたと言えます。
Kみたいに堅苦しく、面白みのない人物で、偏屈、不衛生、しかも貧乏ときたら、
結婚したいと思う女性は、ごくごく限られ、迷惑がられるでしょう。
そんな女心は露とも書かれず、先生の鬱々とした感情が並びます。
この先生にしても、帝大卒で財産家であることを差しい引いたら、
「ぐずぐず」悩んでばかりいて「はっきり」煮え切らない性格で、
「魅力的な男」とはいえません。
登場人物に恋することができなかった思春期の私は、
「大人になれば、もっとわかるのかな」と将来の自分に期待しましたが、
歳を経た私が思うことは、文学も男文学と女文学が存在し、
男性による男性のための文学は、女性には、ちょっと物足りない、ということでした。
私が思春期の一時期、漱石の本を読み漁り、そして、パタリと止めてしまった理由が分かりました。
そこに描かれているのは、インテリの男性の内気な心模様で、
これらについては「なるほど」と肯き、その的確さに唸るようですが、
女性の心は、ほとんど描写されていないので、女性の私は感情移入しずらいのです。
しかも、男性たちは「頭でっかち」に理屈をこね、
私、登場人物と出会っても、恋愛対象になりません。
まあ、その時代、知的階層の人々は、恋愛結婚より見合いが主流でしょうから、
世相を描き、その時代の心を表している、その点では興味深く読みました。
「先生」が妻を娶るまでの経緯と、この女性に恋した親友Kの自殺が、先生の遺書に記されますが、
親友Kの恋心を知りながら、女性を妻にすべく「先生」が先手を打ったことが引き金となってKは自殺し、
先生は罪悪感を抱えて生き、ついには自殺を遂げます。
私は、女性ですから、わずかに描写される、妻となる女性の視点で考えるのです。
この女性は、およそ親友Kを結婚相手に選ぶとは思えません。
先生が行動を起さずに、親友が先にプロポーズしたところで、
この女性とその母親、やんわりと、きっぱりお断りしたと言えます。
Kみたいに堅苦しく、面白みのない人物で、偏屈、不衛生、しかも貧乏ときたら、
結婚したいと思う女性は、ごくごく限られ、迷惑がられるでしょう。
そんな女心は露とも書かれず、先生の鬱々とした感情が並びます。
この先生にしても、帝大卒で財産家であることを差しい引いたら、
「ぐずぐず」悩んでばかりいて「はっきり」煮え切らない性格で、
「魅力的な男」とはいえません。
登場人物に恋することができなかった思春期の私は、
「大人になれば、もっとわかるのかな」と将来の自分に期待しましたが、
歳を経た私が思うことは、文学も男文学と女文学が存在し、
男性による男性のための文学は、女性には、ちょっと物足りない、ということでした。