何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

行動あるのみ

2015年07月27日 22時55分37秒 | Weblog
今朝は小平駅まで歩いた。何も考えられなくなったら行動あるのみ。
まだ、足の筋肉痛が残っている。バランスがとれなくて、フラツキ歩きもますますひどくなっている。

何をとっても今が今まで経験した事の無い最悪の状態で在る事に間違いはない。
これで何度目かな。
ひょっとして、これで終わりかな?って思う事。
記憶に残っているもうこれで終わりの一番最初は、三重県飯高郡飯高町(今は松阪市)の育ての親であるお爺ちゃんお婆ちゃんから引き離されて、まったく記憶に無い両親と始めての町大阪府貝塚市で暮らさなきゃならなくなった五歳の時だった。まったく見知らぬ町で本当の両親とは言え、一歳の時に別れているから始めて出会った見知らぬ両親とゼロからのスタート。毎晩毎晩、布団に入ってから声を殺して枕を濡らすほど泣いていた記憶だけが鮮明に残っている。

でも、記憶には無いが、この時とは逆に、一歳の時も同じ思いをして両親から祖父母に預けられたのだろう。

五歳にして三度目のゼロからのスタート。1、この世に産まれ落ちた時。2、一歳で両親とも大阪市内からも離れ、三重県の祖父母と暮らし始めた時。3、記憶に無い両親と新天地貝塚市で暮らし始めた時。

十歳の時、ロックンロールに出会ってからは、ゼロになる事はなかった。目標が見えなくなっても、音楽に対する向上心と努力する気持ちが消えた事はなかった。

どうしようも無くなって東京に出た。
でも全国発売のレコードを出せた。

どうしようも無くなって、家族の為にと言い訳をして音楽を止めて働いた。
でも、やっぱり詩を書き続け、「青春」という唄を作った事で、後ろ楯も無く活動を始められた。

30歳、ライヴ依頼がほとんど無くなって、カードローンの借金が増えていく一方で、どうしようも無くなった時。無計画に歩き旅をくわだて120日、1600㎞の距離を歩き始めた。この時に出来た人のつながりで生き返った。

40歳、再び借金も増え経済的に行き詰まり、うまく死んで、家族に保険金を残すしか無い。そこまで切羽詰まっていた。
環境を変える為に、金も無いのに音楽アトリエを持とうと奮闘し、静岡県浜松市春野町の山深い勝坂という地域を拠点に活発に活動を再開し始めた。

千日連続ライヴも切羽詰まって始めた。

どうしようもなくなって、先が見えなくなった時。音楽を続けたいという気持ちがあったから、誰でも出来るけど、誰もやって無い事をやって来た。

今回の状況は、今まで経験した事もない大ピンチだが、音楽を続けたい気持ちが有る限り、簡単では無いだろうが、今までとは違う世界に踏み出せるはず。

明日は病院にいく日、何かが見えてくるかもしれない。落ち込んでも閉じ籠りはしない。人生に無駄は無いから、今出来る事を、あきらめずにやり続ける。