今日の写真は、忠史の重要アイテム2つ。絶対音感の無い僕に欠かせない、Aの音叉。ギターのチューニングに必要なラの音(5弦)を教えてくれる。
一番最初にチューニングを合わせる為に買ったのは初心者用の笛(6個の吹き口がついたホイッスル)だった。笛を吹いている姿がいかにも素人ぽいと言うか、ダサくてすぐに止めた。それと比べると、音叉を膝で叩いて口にくわえ、歯から鼻骨に響いた音を耳の中で感じて調弦する姿がカッコ良く、やたらプロっぽくて今でも使っている。一時期デジタルチューニングメーターを使った事もあるが、音叉を使ったカッコ良さにはかなわない、やっぱり短時期で使わなくなって、これからもチューニングのアイテムはずっと音叉だ。
もうひとつの重要アイテムは、常に持ち歩いているレブロンの爪研ぎ。
静岡県の青年の船に講師として初めて香港に行った時、香港のスーパーマーケットの化粧品コーナーで見つけ、百円ほどで買った、僕自身へのおみやげだ。いつもお金の無い僕は、香港に船の中で3日ほど滞在するのだが、所持金は一万円。この後も何回か講師として香港ですごしたり、鹿児島県の青少年の船の講師として上海に出掛けたり、ベトナムへは日本代表の歌手として唄いに出掛けたりしたが、いつも小遣いは一万円。音楽以外何の興味もない僕は、その土地で、美味しいものを食べて使いきる。そう言う意味では、この爪研ぎは、安物だが偉大なる自分へのおみやげは、きっと一生ものだろう。
さて、昨日の続きだ。プロフェッショナルとして歩き出した時のギターの存在は僕の記憶の片隅にも残って無かったので出てきて驚いた。中学校の3年生の頃から、ギターを弾き出した、教えてくれる人もなく、ギター教則本が在ることも知らず、月刊明星だったか何だったか、フロクについていた歌本の譜面の上に書いてあるコードが僕の師匠だった。誰に教わる事なく、音の出ないギターの練習を延々と繰り返し、Fと言うコードを三ヶ月かけてやっと音を滑らかに出すことが出来、そして次の難関B♭も克服した僕は、その当時流行った、ワイルドワンズというソフトなグループが唄っていた「想いでの渚」と言う曲を大きな声で、来る日も来る日も練習していた。勉強もせず毎日ギターを弾いて大声で唄い。夜は深夜までラジオの音楽番組を聴き続けた、作曲の為にスタンダードナンバーから最新のビルボードのベストヒット曲までジャンルを問わず、これも死に物狂いで。
当然、学校の成績はガタ落ち。それに親父が怒った事を覚えている。「女の腐ったような事しやがって、何考えてるんや、このど阿呆が!。」失礼な表現が出てきてしまいましたが、今はあの世にいる親父の発言として許して下さい。
とまぁ、そんな親父だったので、僕が自分の力で初めて買ったギターを大切に隠すように仕舞ってくれていたなんて、驚きだった。
僕は高校を卒業してすぐに家を出て、大阪ではアパートを転々とし、後に東京に出てしまったので、親父とはほとんど話した事がない、駄目な息子と思っていたんだが、日本生命に勤め、各県で支店長をつとめた。優秀な従兄弟がいるのだが、生前その従兄弟に僕の事を自慢していたと聞いた。親父には、叱られた事はあっても、ほめられた事は無い。
親父にとって僕のギターは特別な物だったのかも知れない。
そうして親父が残してくれたギターで僕は、今も高校生の頃とかわらず曲作りをしている。
明日に続く。
一番最初にチューニングを合わせる為に買ったのは初心者用の笛(6個の吹き口がついたホイッスル)だった。笛を吹いている姿がいかにも素人ぽいと言うか、ダサくてすぐに止めた。それと比べると、音叉を膝で叩いて口にくわえ、歯から鼻骨に響いた音を耳の中で感じて調弦する姿がカッコ良く、やたらプロっぽくて今でも使っている。一時期デジタルチューニングメーターを使った事もあるが、音叉を使ったカッコ良さにはかなわない、やっぱり短時期で使わなくなって、これからもチューニングのアイテムはずっと音叉だ。
もうひとつの重要アイテムは、常に持ち歩いているレブロンの爪研ぎ。
静岡県の青年の船に講師として初めて香港に行った時、香港のスーパーマーケットの化粧品コーナーで見つけ、百円ほどで買った、僕自身へのおみやげだ。いつもお金の無い僕は、香港に船の中で3日ほど滞在するのだが、所持金は一万円。この後も何回か講師として香港ですごしたり、鹿児島県の青少年の船の講師として上海に出掛けたり、ベトナムへは日本代表の歌手として唄いに出掛けたりしたが、いつも小遣いは一万円。音楽以外何の興味もない僕は、その土地で、美味しいものを食べて使いきる。そう言う意味では、この爪研ぎは、安物だが偉大なる自分へのおみやげは、きっと一生ものだろう。
さて、昨日の続きだ。プロフェッショナルとして歩き出した時のギターの存在は僕の記憶の片隅にも残って無かったので出てきて驚いた。中学校の3年生の頃から、ギターを弾き出した、教えてくれる人もなく、ギター教則本が在ることも知らず、月刊明星だったか何だったか、フロクについていた歌本の譜面の上に書いてあるコードが僕の師匠だった。誰に教わる事なく、音の出ないギターの練習を延々と繰り返し、Fと言うコードを三ヶ月かけてやっと音を滑らかに出すことが出来、そして次の難関B♭も克服した僕は、その当時流行った、ワイルドワンズというソフトなグループが唄っていた「想いでの渚」と言う曲を大きな声で、来る日も来る日も練習していた。勉強もせず毎日ギターを弾いて大声で唄い。夜は深夜までラジオの音楽番組を聴き続けた、作曲の為にスタンダードナンバーから最新のビルボードのベストヒット曲までジャンルを問わず、これも死に物狂いで。
当然、学校の成績はガタ落ち。それに親父が怒った事を覚えている。「女の腐ったような事しやがって、何考えてるんや、このど阿呆が!。」失礼な表現が出てきてしまいましたが、今はあの世にいる親父の発言として許して下さい。
とまぁ、そんな親父だったので、僕が自分の力で初めて買ったギターを大切に隠すように仕舞ってくれていたなんて、驚きだった。
僕は高校を卒業してすぐに家を出て、大阪ではアパートを転々とし、後に東京に出てしまったので、親父とはほとんど話した事がない、駄目な息子と思っていたんだが、日本生命に勤め、各県で支店長をつとめた。優秀な従兄弟がいるのだが、生前その従兄弟に僕の事を自慢していたと聞いた。親父には、叱られた事はあっても、ほめられた事は無い。
親父にとって僕のギターは特別な物だったのかも知れない。
そうして親父が残してくれたギターで僕は、今も高校生の頃とかわらず曲作りをしている。
明日に続く。