何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

プロフェッショナル忠史の原点・2

2015年07月02日 14時43分49秒 | Weblog
今日の写真は、忠史の重要アイテム2つ。絶対音感の無い僕に欠かせない、Aの音叉。ギターのチューニングに必要なラの音(5弦)を教えてくれる。
一番最初にチューニングを合わせる為に買ったのは初心者用の笛(6個の吹き口がついたホイッスル)だった。笛を吹いている姿がいかにも素人ぽいと言うか、ダサくてすぐに止めた。それと比べると、音叉を膝で叩いて口にくわえ、歯から鼻骨に響いた音を耳の中で感じて調弦する姿がカッコ良く、やたらプロっぽくて今でも使っている。一時期デジタルチューニングメーターを使った事もあるが、音叉を使ったカッコ良さにはかなわない、やっぱり短時期で使わなくなって、これからもチューニングのアイテムはずっと音叉だ。

もうひとつの重要アイテムは、常に持ち歩いているレブロンの爪研ぎ。
静岡県の青年の船に講師として初めて香港に行った時、香港のスーパーマーケットの化粧品コーナーで見つけ、百円ほどで買った、僕自身へのおみやげだ。いつもお金の無い僕は、香港に船の中で3日ほど滞在するのだが、所持金は一万円。この後も何回か講師として香港ですごしたり、鹿児島県の青少年の船の講師として上海に出掛けたり、ベトナムへは日本代表の歌手として唄いに出掛けたりしたが、いつも小遣いは一万円。音楽以外何の興味もない僕は、その土地で、美味しいものを食べて使いきる。そう言う意味では、この爪研ぎは、安物だが偉大なる自分へのおみやげは、きっと一生ものだろう。

さて、昨日の続きだ。プロフェッショナルとして歩き出した時のギターの存在は僕の記憶の片隅にも残って無かったので出てきて驚いた。中学校の3年生の頃から、ギターを弾き出した、教えてくれる人もなく、ギター教則本が在ることも知らず、月刊明星だったか何だったか、フロクについていた歌本の譜面の上に書いてあるコードが僕の師匠だった。誰に教わる事なく、音の出ないギターの練習を延々と繰り返し、Fと言うコードを三ヶ月かけてやっと音を滑らかに出すことが出来、そして次の難関B♭も克服した僕は、その当時流行った、ワイルドワンズというソフトなグループが唄っていた「想いでの渚」と言う曲を大きな声で、来る日も来る日も練習していた。勉強もせず毎日ギターを弾いて大声で唄い。夜は深夜までラジオの音楽番組を聴き続けた、作曲の為にスタンダードナンバーから最新のビルボードのベストヒット曲までジャンルを問わず、これも死に物狂いで。
当然、学校の成績はガタ落ち。それに親父が怒った事を覚えている。「女の腐ったような事しやがって、何考えてるんや、このど阿呆が!。」失礼な表現が出てきてしまいましたが、今はあの世にいる親父の発言として許して下さい。
とまぁ、そんな親父だったので、僕が自分の力で初めて買ったギターを大切に隠すように仕舞ってくれていたなんて、驚きだった。
僕は高校を卒業してすぐに家を出て、大阪ではアパートを転々とし、後に東京に出てしまったので、親父とはほとんど話した事がない、駄目な息子と思っていたんだが、日本生命に勤め、各県で支店長をつとめた。優秀な従兄弟がいるのだが、生前その従兄弟に僕の事を自慢していたと聞いた。親父には、叱られた事はあっても、ほめられた事は無い。
親父にとって僕のギターは特別な物だったのかも知れない。
そうして親父が残してくれたギターで僕は、今も高校生の頃とかわらず曲作りをしている。


明日に続く。