三木城跡上の丸公園に鎮座される「上の丸稲荷神社」。御祭神は『稲倉魂神(稲穀の神)・保食神(五穀・食物の神)稚産靈神(わかむすびのかみ)(穀物の生育を司る神)』
由緒「三木城主別所長治が京都の伏見より勧請して城域に創建したと伝えられる。天正八年別所氏滅亡の時烏有に帰したが、後に豊臣秀吉によって再建。旧社名は府内中将稲荷大明神といい地元滑原町が管理。江戸時代中頃から起った三木金物産業の鍛冶屋の崇敬を集め、明治三十五年に荒廃していた社殿と玉垣の再建が行われた。」
100段近い石段参道の先、鳥居の内より神域を守護されるのは、巻物と鍵を咥える神狐さん一対。すらりとしたお姿は、城址に祀られる稲荷神の眷属らしい気品を感じます。
ちなみにお狐様が座る猫足台座の下には、二丁の金づちが置かれています。置いているのか奉納されているのか、何とも不可思議な状況ですが・・でも多分、奉納なのだろうと思います(^^;)
参道は滑原商店街からの石段が正式な順路かなと思うのですが、流石に100段の石段を上り下りするには、根性も体力もありません(^^;) 私たちは、直接拝殿に続く石段からの参拝。
本殿前左右より神域を守護されるのは、金網の中で大切に保護されている「箱入り娘」ならぬ「箱入り神狐」。
稲荷神社の本殿後方には「お塚」と呼ばれる磐境があり、石碑や鳥居が驚くほど沢山建立されています。
本殿裏に鎮座される「府内中将稲荷大明神」。美嚢郡誌に「本社ノ直後ニ腐香朽シテ洞窟ヲ生ゼル老木アリ、洞前ニ小詞ヲ建テテ之ヲ祀ル、御神體ハ洞中ニ納メ奉ルト、人之レヲ朝日明神ト稱ヘテ崇敬ス」
祠の前左右より神域を守護されるのは、巻物と珠を口に食む神狐さん一対。確かにお狐様なのですが、珠を口中に含むお狐様の顔は、狼を想像させる険しさ。
三木城跡上の丸に建立されていた「別所長治公:騎馬像」。じっと見上げていて、ふと・・・何となく違和感を感じさせられる奇妙な居心地の悪さに思わず二度見、三度見・・
そうしてやっと、長治公の鎧の下から見える着物の衿合わせが左前である事に気が付きました。古墳時代じゃあるまいし、まさか自刃したから「死に装束」に??それはあまりにも不自然と言うか、あり得ない。もしかして石像の制作者が日本の着付けを知らなかった??。更に受注し受け取った側も、その事に気が付かなかった??もしもそうなら何ともお粗末すぎる・・・
天正6年(1578)から天正8年(1580)にかけて繰り広げられた織田方と別所氏との合戦。城に篭城した別所氏に対し、織田軍配下の秀吉は、兵糧の輸送を断つ三木城攻めに出ます。二年間に及ぶ「三木の干(ほし)殺し」は、日を追うごとに凄惨さを極め、遂に別所氏は兵士や領民の命と引き換えに一族と共に自刃して果てます。
参拝日:2010年5月4日
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『稚産靈神(わかむすびのかみ)』、火の神「火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)」と、土の神「埴山姫(はにやまひめ)」の間に生まれた子。頭に蚕と桑、,臍(へそ)の中に五穀が生じたという。
三木市のブログを、名高い刃物とユニークなキャラクターとマンホールの紹介だけで終わらせず、貴方はやはり「三木の干し殺し」に言及されました。
普通の人が目に止めない、長治公の鎧の下の左装束にまで気が付かれました。気品のあるお狐様が鎮座される一方で、狼かと思われる険しい顔のお狐様もおられました。
居心地の悪さを感じられる様子が、伝わったまいりました。やはり貴方には、私たちにない「歴史と語り合えるもの、こころ」を持たれているのかもしれませんね。
しかし今回のブログを読み、やはりここは日本の国の歴史であると、安堵いたしました。
敵を殺したらそれで終わりでなく、ちゃんと長治公とその関係者を弔うため、秀吉が神社を再建しています。
それに応えるような、長治公の歌です。恨みの歌でなく、国を収めた武将の歌で、何度読んでも敬意の念が生まれます。
【 今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかはる 我身と思へば 】
良いことを教えていいただき、感謝いたします。(このコメントは、送信する前、2度消えました。これが3度めの書き直しです。ご先祖様の、気に入らない部分があったのかもしれませんね。)
実はこの記事・・・
送信の際に何故か内容が消えてしまったのです。
画像が多い記事なので、記憶を辿り
画像に併せてもう一度記事を書き、
今度は全文をコピーしてから送信。
で、また消えました😭
何が気に入らなかったのかと考えた末、
「石像の制作をどこの国に頼んだ?まさか〇国?」の一文を消して再送信。
(〇にはちゃんと漢字を書いてました)
無時にアップできました(-_-;)
何だか・・腹立たしいですね