きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(42)・ビートルズがやってきた

2010年10月10日 | 思い出探し
仮装大会でのベトナム戦争反対のアピール。昭和41年頃。


1959年に始ったベトナム戦争は泥沼化し、昭和40年代初頭の日本でも反戦運動が活発化していた。

仙台一高の学校行事は生徒の自主運営に任されており、文化祭、運動会、二高との野球の定期戦、強歩大会、もちろん一女高との合同演奏会なども全て学生の手で運営されていた。

当然、各行事へは高校生の視点から見た世相が反映されることになり、文化祭ともなると弁論部や新聞部など文科系クラブを中心に安保やベトナム戦争についての討論会などが開かれた。

一高名物は「野次」であり、弁論者の発言に間髪をいれずウイットに富んだ痛烈な野次をとばすのだが、その巧みさは今の国会でなされるつまらない誹謗や妨害に近い野卑な野次に較べて格段優れていたと思う。

先輩の文芸・美術評論家の針生一郎を囲んでの「ベトナム戦争」についての講演会が行われたりもしたし、運動会の仮装大会などでもベトナム反戦をテーマにしたものが出たりしたが、同時にヒョッコリひょうたん島や伊賀の影丸なども出てきたり、「ミス一高コンテスト」などというのもあって、結構女子高生達や近所のおばさんたちを喜ばせていたのも、硬軟合わせ持つ一高生らしい卒のなさであった。

昭和41年6月にビートルズが来日した。
当時、男声合唱にのめりこんでいた私は馴染めなかったが、すぐにマッシュルームカットに何故か知らないが戦闘服の数人のグループが私の学年にも登場し、エレキギターを肩に校内を闊歩し始めた。

なにしろ、10年近く後に吉田拓郎が作り、ムッシュかまやつが歌った「ああ、我が良き友よ」に出てくる「下駄を鳴らして奴が来る、腰に手ぬぐいぶら提げて、学生服に沁み込んだ、男の臭いがやってくる・・・」学生や、井上ひさしの「青葉繁れる」に出てくるバンカラ学生の世界に突如現れたビートルズもどきで、半分奇人変人扱いで、学生の多くは見てみぬふりだったが、このビートルズもどきのリーダー格の生徒が顔は不細工だが、学年でトップクラスの成績優秀なやつで、私の仙台での小学校2年生の時の同級生だったのも不思議な縁であり、記憶に残っている。

文化祭(一高祭)の最後には校庭でファイヤーストームが行われるのが慣例で、文化祭で使った角材やベニヤ板を校庭の真ん中に積み上げて、盛大な焚き火を燃やし、周りに輪になって校歌や応援歌を大声で歌った。

今ではこんな焚き火を街中でするのはご法度で、消防署から中止命令を受けそうだが・・・良い時代だった。
歌い踊り汗ダクダクになった最後には、ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」が歌われたが、いかにも青春時代という感じで懐かしい。

我々の世代にはこの「若者たち」の歌と、少し後に創られた映画の「若者たち」・・・山本圭、佐藤オリエ、田中邦衛も若かったなあ・・・がいつまでも心に残る名作なのです。私だけかな?

ついでに、「・・ハッパフミフミ・・」の大橋巨泉の「11PM」が仙台で放送開始になったのが入学した年(確か?)で、皆がなぜかワクワクして、クラス中で話題になっていたのだが、TVも無い私はなんのことか分からず、全く話に乗れなかったのでした。

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