きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(37)・新入生歓迎会

2010年10月07日 | 思い出探し
昭和40年春の事である。
ドーン、ドーン、ドーン、ドーンと鳴り響く大太鼓。
全ての窓を暗幕で覆って真っ暗にした体育館の中には、手ぐすね引いて獲物を待ち構える野獣か悪魔のような上級生達がひしめき合って、ムッとするような人いきれと汗臭さか満ちていた。

一列に並んだ新入生たちは、恐怖に顔を引きつらせてただ黙りこくる者、あるいは緊張を打ち消すために友達とやたらはしゃいでいる者など様々だったが、体育館の片側に設けた入り口から、統制係りの上級生に背中を押されるようにして中へ入っていくときには、皆一様に緊張していた。

反対側に設けた出口との間には、体育館内にうねうねととぐろを巻いた蛇のように、2列に並んだ上級生の造る道が延々と続いていて、というか暗くて先のほうは全く見えないのであるが、この道を通って出口を目指す新入生たちを一様に憂鬱な気分にさせていた。

上級生たちが新入生をすいすいと通してくれるはずも無く、一歩進む毎に大声で何度も自己紹介させられる、挨拶させられる、クラブへのしつこい勧誘、難しい質問や答えにくい質問を受ける、歌を歌わされる、などは序の口で、コズかれるドツかれるといったことの繰り返しで、簡単に言えば「精神的、肉体的いじめ」を延々と受けることになる。これに耐え、あるいは旨く切り抜け、なんとか列の半分ほどまで来たころには、ノドは嗄れ、汗は学生服をしみとおり、頭は体育館全体の喧騒でガンガンして、足元はふらふらで、熱中症の一歩手前の状態となった。これが噂に聞いていた仙台一高伝統の新入生歓迎会。

まあ、どこの高校でも当時は似たような手荒い歓迎会は少なからず行われていたと思うが。現在はどんなものであろうか、もっとハッピーな楽しいお祭り的な歓迎会が主流なのかもしれない。

私の場合は、腰椎カリエスの手術後2~3年間は着けているように医師からいわれていたガッチリしたコルセットを鎧のように身体に着けていた訳で、どついた先輩が手の痛さに顔をしかめるほどで、「なに着てんだ、おまえ?」と言った上級生も、私がなにかの障害を持っているとすぐに気付いて、あまり無茶なことはせずに、比較的すいすいと通してくれた。
おまけに、その時すでに合唱部に入部していたのが幸いし、先輩たちとのやり取りにいいかげんうんざりしてきた頃に、私に気付いた合唱部の先輩がすぐに列から外に引っ張り出してパスさせてくれたのだった。

体育館の外に出てみると、そんなふうにパスした同級生たちが少なからずいて、なんのことはない皆入学早々にどこかのクラブに加入した連中で、つまりはクラブの先輩の有りがたさを身をもって知ることになる仕組みでもあった。

文武両道、質実剛健で「ばんから」で通っていた一高(エテコウとも言う)らしい、手洗い歓迎会であったが、中学生とは違う大人の世界に一歩足を踏み入れたと感じた出来事で、いまはとても懐かしい。

ちなみに、入学して最も気に入ったのは校訓であり、「自重献身」・・・「自重以って己を律し、献身以って公に奉ず」という、若者の志として相応しい、なんとなく明治の香りがするものであるが、以来ずっとこれを座右の銘としてきた。

ところで、50歳を過ぎ、会社を早期定年退職したころからは、私の血肉となってしまった「自重献身」を座右に置く必要も無くなり、代わりに老子の「上善如水」・・・「上善は水の如し」(理想とするのは、留まることなく、しかも悠々として流れる大河の流れのように、ゆったりと自然の流れに任せて生きることである)を座右の銘としている。まさに林住期を生きる今の私にとって相応しく、また斯くありたいと思ってのことである。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

最新の画像もっと見る

コメントを投稿