きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(38)・下宿屋

2010年10月08日 | 思い出探し
昭和40年代初頭の高校生の(ちょっとお洒落をした時の)一般的スタイル。
学生帽、学生服にトレンチコート。季節は秋。前列が私。


昭和40年4月から気仙沼の両親と別れて仙台での下宿生活が始った。

両親がどのようにして探したのか分からないが、一高のすぐ側に下宿屋を見つけてきて、あまりに近すぎてこれでは学校と下宿屋との往復だけの毎日になってしまうと、口には出せなかったが少し気に入らなかった。

取りあえずという気持ちでここに落ち着いたのだが、結局卒業までの3年間をここで暮らすことになった。

下宿屋とはいっても、本業は化粧品と手芸用品の店で、子供が生まれたばかりの若夫婦がお店を切り盛りし、実質的な一家のリーダーであるおばあさんが手芸教室の先生、晩酌でウイスキーを舐めるのが大好きなおじいさんは奥の部屋で編み機を使って商品のニットをいつも編んでいた。

下宿人は私とお店で働いている小太りのお姉さんの2人きりだった。
3畳1間で朝夜食付きで下宿代は確か9,500円だったと思う。特別奨学生として8,000円の奨学金を受けていたので、親からの仕送りは15,000円ほどだっただろうか。

当時のサラリーマンにとっては大金であり、おまけに翌年には兄も仙台の大学に入ったため、子供2人分の学費と生活費の仕送りは大変だったと思う。子供の教育に熱心だった親にはいくら感謝しても感謝しきれない。

3畳の部屋は大家さんの家の裏に建てられたバラック建ての家(小屋?)で、外便所、外風呂、で不便ではあったが、大家さん一家と普段顔を合わすことが少ないのがかえって気に入っていた。
ただし、トイレの臭いと、エアコンも無い時代での夏の暑さには閉口させられたものだ。

「窓に腰掛、あの人は、暮れてゆく空見つめつつ、白い横顔くもらせて、今日は別れに来たという・・・」、「しけたタバコを回しのみ、欠けた茶碗で酒を飲み、金は無いのに楽しくて、いつも誰かに惚れていた・・・」と森田公一が歌った下宿屋の生活は、あくまで大学生のそれで、高校生の下宿生活は至って謹厳実直で、加えて校訓の「自重以って己を律し、献身以って公に奉ず」を座右の銘とする当時の私は、思ったとおりに下宿屋と学校を往復する毎日となり、一番町や国分町など繁華街にもほとんど出ることが無かった・・・と言ってしまうと嘘になるので、まあ、ほとんど行くことが無かったとしておこう。

勉強とクラブ活動で忙しく毎日を暮らしているうちに、季節はどんどん巡って、高校3年間は駆け足で過ぎていったのだった。



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