11月22日に続いて、今日は「斉太郎節」の故郷、宮城の思い出です。
私は20代の最後の頃に2年9か月間、仙台で仕事をし、生活しました。
広瀬川に架かる愛宕橋のたもとのアパートに2歳半ばの子供を含めた家族で移り住みました。
当時は路面電車が走っており、休日にゆったりと揺られながら三越デパート迄家族で買い物に行くのが楽しみでした。
同じアパートに住む子供の友達を連れて近所の広瀬川でボート遊びをしました。写真の白い物は、その時に河川敷で拾った「樹木の化石」で、今は我が家の庭の片隅に鎮座しています。
伊達政宗の「御霊屋」までも歩いて行けましたが、当時は戦災で焼かれたままで、お墓に木柱が立っているだけで今の様な壮麗な建物は想像出来ませんでした。
若かったので、良く飲みました。国分町の飲み屋やバーにお気に入りの店があり、入り浸りでした。お金が無いのに出かけて、つまみ以外はウオッカやテキーラと言う強すぎて誰も飲まない酒を只で飲ませてもらったこともあります。
会社の送別会等は、向山地区の鄙びた料亭でありました。カラオケはまだまだ先のことで、専ら民謡で、皆で手拍子を打ちました。山形出身のSさんの「最上川舟唄」は、訛り具合もちょうど良く、素晴らしかったです。
宴会の最後は何時も、皆で肩を組んで「ミス仙台」を声を限りに歌いました。
私が「ほや」を初めて食べたのも仙台です。三陸の海で取れるパイナップルのような形をしており、肉はツンと鼻をつく独特の匂いがして初めは馴染めませんが、慣れると大好物となります。夏でも熱燗が合います。
お土産と言えば、「笹蒲鉾」か「白松が最中」でした。「牛タン」や「萩の月」は有ったかどうかわかりません。
松島は何時行っても眺めが良く、芭蕉が絶句して「松島や ああ松島や 松島や」と読んだのも頷けるな、と思いました。
閖上浜は冬でも温かく、東北の湘南と言われていました。この春の津波でその浜をずんずんと海水が上ってくるのをテレビで見て、本当に信じられない思いでした。
ゴルフは始めたのも仙台です。一度だけ打ちっぱなしにいっただけでコースに出ました。なんと、練習場ではボールを借りたので、ゴルフ場でも借りるものと思い、持って行かず、慌てて買いましたが、打つ度に谷底に消えて無くなり、皆さんの使い古しのボールをもらってやりました。勿論スコアは全く「記憶に御座いません」。
仙台には、何人も知り合いが居ますが、幸い亡くなった方はいませんでした。コンピューター関係の会社を経営しているOさんの会社でパソコン等がガタガタになり事務所を移転したのが最も大きな影響です。
先日、ネットで「斉太郎節こそ復興の唄にしゃう」とありました。
思い出多い宮城の復興を祈念して、心を込めつつリズミカルに吹きたいと思います。
私は20代の最後の頃に2年9か月間、仙台で仕事をし、生活しました。
広瀬川に架かる愛宕橋のたもとのアパートに2歳半ばの子供を含めた家族で移り住みました。
当時は路面電車が走っており、休日にゆったりと揺られながら三越デパート迄家族で買い物に行くのが楽しみでした。
同じアパートに住む子供の友達を連れて近所の広瀬川でボート遊びをしました。写真の白い物は、その時に河川敷で拾った「樹木の化石」で、今は我が家の庭の片隅に鎮座しています。
伊達政宗の「御霊屋」までも歩いて行けましたが、当時は戦災で焼かれたままで、お墓に木柱が立っているだけで今の様な壮麗な建物は想像出来ませんでした。
若かったので、良く飲みました。国分町の飲み屋やバーにお気に入りの店があり、入り浸りでした。お金が無いのに出かけて、つまみ以外はウオッカやテキーラと言う強すぎて誰も飲まない酒を只で飲ませてもらったこともあります。
会社の送別会等は、向山地区の鄙びた料亭でありました。カラオケはまだまだ先のことで、専ら民謡で、皆で手拍子を打ちました。山形出身のSさんの「最上川舟唄」は、訛り具合もちょうど良く、素晴らしかったです。
宴会の最後は何時も、皆で肩を組んで「ミス仙台」を声を限りに歌いました。
私が「ほや」を初めて食べたのも仙台です。三陸の海で取れるパイナップルのような形をしており、肉はツンと鼻をつく独特の匂いがして初めは馴染めませんが、慣れると大好物となります。夏でも熱燗が合います。
お土産と言えば、「笹蒲鉾」か「白松が最中」でした。「牛タン」や「萩の月」は有ったかどうかわかりません。
松島は何時行っても眺めが良く、芭蕉が絶句して「松島や ああ松島や 松島や」と読んだのも頷けるな、と思いました。
閖上浜は冬でも温かく、東北の湘南と言われていました。この春の津波でその浜をずんずんと海水が上ってくるのをテレビで見て、本当に信じられない思いでした。
ゴルフは始めたのも仙台です。一度だけ打ちっぱなしにいっただけでコースに出ました。なんと、練習場ではボールを借りたので、ゴルフ場でも借りるものと思い、持って行かず、慌てて買いましたが、打つ度に谷底に消えて無くなり、皆さんの使い古しのボールをもらってやりました。勿論スコアは全く「記憶に御座いません」。
仙台には、何人も知り合いが居ますが、幸い亡くなった方はいませんでした。コンピューター関係の会社を経営しているOさんの会社でパソコン等がガタガタになり事務所を移転したのが最も大きな影響です。
先日、ネットで「斉太郎節こそ復興の唄にしゃう」とありました。
思い出多い宮城の復興を祈念して、心を込めつつリズミカルに吹きたいと思います。