笛吹き朗人のブログ

器楽は苦手でしたがサラリーマンを終えた65歳から篠笛を習っています。篠笛を中心に日々のリタイア生活を紹介します。

忠臣蔵

2011-12-02 09:57:12 | 日記
12月は、14日が「吉良邸討ち入りの日」であることから、「忠臣蔵の月」です。私が子供の頃は、年末は必ず「忠臣蔵」の映画を見て、吉良役の俳優に憎しみを感じ、大石役の俳優に憧れを抱き、15歳の主税を自分に惹き付けて哀れみを感じたものです。
今から10年ばかり前、池宮彰一郎の「47人の刺客」を読み、改めて「忠臣蔵」に興味が湧き、物語としての「忠臣蔵」ではなく、歴史的出来事としての「元禄赤穂事件」がどのようなものであったのか知りたくなりました。数十冊に及ぶ様々な書物を読みあさり、東京都内、川崎、赤穂、京都(伏見、山科を含め)、吉良など関係の土地を訪ね歩きました。
そうする中で浅野家の始祖(長政)は、秀吉の妻「ねね」の義理の兄であることから秀吉に重用されたが石田三成とは対立したため関ヶ原の合戦では東軍につき、江戸時代を通して大名(浅野本家は広島藩)として残ったことがわかりました。また、赤穂浅野家は長政の隠居領として今の茨城県桜川市真壁町に5万石でスタートし、その後笠間藩を経て赤穂藩に移ったと言うことも知り、私が生まれ育った近くに縁があったと言うことで親密感を感じました。
事件は、勅使接待役になった浅野内匠頭が礼法指導役の吉良上野之介の扱いに腹を立て、あろうことか勅使接待の当日に江戸城松の廊下で刃傷に及んだ為、その責任を問われ即日切腹を命じられると共に藩は取り潰しになることから始まります。これに対し藩内に様々な意見のあるなか、家老の大石は内匠頭の弟で1500石の旗本であった浅野大学を立てて、様々なルートを通じてお家再興を幕府に働きかけるが入れられなかったため、それならば喧嘩両成敗にもとり許しがたいとして同志47名で本所松阪町・吉良邸に討ち入り、上野之介の首を取り、芝・泉岳寺の内匠頭の墓前に捧げることとなります。町人や武士達は、これを快挙として喝采の声を上げますが、将軍・綱吉は儒者・荻生祖来の「主君の仇を打つことは忠義ではあるが、幕府の法に背いたことは許されるべきではない」と言う意見を容れて、切腹を命ずるのです。今年、丸谷才一氏が文化勲章を授章されました。これまで氏の作品は全く読んだことがなかったので、Amazonで調べて見たら「忠臣蔵とは何か」と言
う作品が有ることがわかりましたので、購入して読んで見ました。丸谷氏によると「事件としての忠臣蔵は、当時の関東に綿々として伝わっていた御霊信仰にのっとった行為で、曽我兄弟の仇討ちと同様に振る舞うこととして展開されたものだ」とされています。綱吉の治世への批判、歌舞伎の世界の奥深さなど参考になる部分が沢山有りましたが、歴史的事実を丹念に追いかけた私からみると、「仮名手本忠臣蔵」に引っ張られ過ぎではないか、と言う印象が強く感じました。ただ、全く独自の視点からの分析は大変興味深いものでした。
コメント (2)
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