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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

これで読める!難読地名(ヤマトロジー講座)は、 5月28日(土)開催!

2016年05月11日 | お知らせ
毎月第4土曜日(13:00~14:30)に開催している「まほろばソムリエのヤマトロジー講座」、5月の演題は「これで読める!難読地名」、講師はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の吉川和美さんである。開催場所は、近鉄奈良駅ビル5階の「クラブツーリズム奈良旅行センター」、参加費は1,200円である。同センターのHPによると、
※トップ写真は、いつもおしゃれな吉川和美さん。クラブツーリズム奈良旅行センターで2015.9.6撮影

「これで読める!大和の難読地名」
長い歴史を持つ奈良県下には、難しい地名がたくさん残ります。地名は「生きた考古学」とも言われます。今回は、難読地名に秘められた歴史的 な背景を深く掘り下げ、分かりやすく解説いたします。


本当に奈良県には難読地名が多い。郵便番号簿を開くと、読めない地名が続々と並んでいる。しかしその地名には、歴史的な裏付けのあるものが多い。これを「カリスマ講師」をめざす吉川さんがどのように解説されるか、これは見ものである。お申し込みは同センターのHPから。今後の予定をお知らせしますと、

■6月25日 「入門!南朝・後南朝とその史跡」
「歌書よりも軍書に悲し吉野山」(各務支考)。吉野に本拠が置かれ、『太平記』にも登場する南朝、その後、南朝再興を図ろうとした後南朝。秘められた哀史とその史跡をやさしく紹介いたします。

■7月23日 「棚田嘉十郎と平城宮跡保存運動」
平城宮跡保存の功績者とされる棚田嘉十郎。彼が宮跡保存運動に関わった動機は何か?なぜ彼の行動が保存につながったのか?そして悲劇的な自刃の真相は?当時の資料を読み解きながら、これらを探ります。

■8月27日 「長谷寺と初瀬郷を訪ねる」
「長谷寺式」といわれる十一面観音の魅力を考えます。そして、たび重なる焼失にも関わらず、不屈に再建を重ねた長谷寺の歴史を語ります。初瀬郷の祭りや風習を解説しながら、長谷寺と初瀬郷との温かい「ふれあい」を紹介いたします。

■9月24日 「解明!称徳天皇と百万塔陀羅尼の謎」
奈良時代に2度、皇位についた女帝の波瀾万丈の生涯とその功績を紹介します。称徳天皇は聖武天皇の娘として奈良に仏教王土を築き、素晴らしい文化遺産を残しました。現存する世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼」の謎を解明します。

■10月22日 「風雲! 真田丸」
「真田丸」は、NHK大河ドラマで人気沸騰中です。信州から関ヶ原、そして紀州・九度山(くどやま)へ。信繁(幸村)は、ここから大坂の陣に出陣します。真田三代の活躍、奈良とのゆかり、そしてドラマの行方について、九度山町出身の講師が存分に語ります!


なお毎月第2土曜日は、もと奈良県立高校教諭の吉田美幸さんによる「日本史講座~歴史に名をなす人物 光と影~」という講座がある。5月は役小角(役行者)、6月は日野富子、7月は松平忠直、8月は北条政子、9月は世阿弥…。

クラブツーリズム奈良旅行センターの講座に、たくさんのお申し込みをお待ちしています!
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まほろばソムリエの深イイ奈良講座( in 東京)/5月14日(土)、恵心僧都源信を語る!(2016 Topic)

2016年05月10日 | 奈良にこだわる
ご好評いただいている奈良まほろば館(東京・日本橋三越前)の「まほろばソムリエの深イイ奈良講座」、5月14日(土)は「恵心僧都源信(えしんそうづげんしん)」、講師はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の大山恵功(おおやま・よしのり)理事である。大山理事は以前、産経新聞「なら再発見」欄でも「ぽっくり寺・阿日寺は、源信生誕の寺」として、源信を紹介していた。同館のHPによると、
※トップ写真は、大山理事の講演風景(クラブツーリズム奈良旅行センターで)

「奈良まほろばソムリエ検定」(通称:奈良検定)の最上級である「奈良まほろばソムリエ」資格取得者を講師に迎え、奈良を楽しく学ぶためのセミナーです。

平安時代に今の奈良県香芝市良福寺で生まれたといわれている「恵心僧都源信」は、極楽往生の方法を書いた「往生要集」で有名で、この思想は、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗などへと受け継がれていきます。源信の生涯とともに、香芝市の「阿日寺」(あにちじ)」、斑鳩町の「吉田寺」(きちでんじ)の「ぽっくり寺」のいわれや、當麻寺(たいまでら)など周辺の源信ゆかりの地をご紹介します。



1.日  時:平成28年5月14日(土)14:00~(1時間半程度)
2.演  題:恵心僧都源信(えしんそうづ げんしん)
3.講  師:大山 恵功(おおやま よしのり)氏
       NPO法人奈良まほろばソムリエの会 啓発グループ担当理事
4.会  場:奈良まほろば館2階
5.資料代等:500円(※当日受付にて申し受けます。)
6.定  員:70名(先着順)
7.申込方法:
  ・ハガキまたはFAX
   必要事項(講演名・講演日・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、
   奈良まほろば館までお送りください。
  ・ホームページ
   「申込フォーム」からお申し込みください。

問い合わせ先
 奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
 電話03-3516-3931/FAX03-3516-3932

※聴講券等の発行はいたしません。定員に達し、お断りする場合のみご連絡いたします。
※キャンセルされる場合は事前にお知らせください。


源信の生涯、源信ゆかりの寺のほか、『往生要集』に記された源信の思想も紹介される。90分で分かる深イイ源信の話である。残席あり。東京圏の皆さんは、ぜひお申し込みください!
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奈良は胃酸過多(遺産過多)&誇大妄想(古代妄想)/観光地奈良の勝ち残り戦略(107)

2016年05月09日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
興味深い話をお聞きした。永らく県内の大学で教鞭を執られていたKさん(県外在住)から聞いたのである。幸運にも懇親会で、たまたま隣りの席になった。

「tetsudaさん、奈良は2つの病気にかかっていますよ。1つは胃酸過多ならぬ『遺産過多』、もう1つは誇大妄想ならぬ『古代妄想』です」。なるほど、これは言い得て妙である。
※画像はJR東海の「うましうるわし奈良」のポスター(金峯山寺)。従来にない斬新なアングルだ

1.遺産過多( I/O 胃酸過多)
奈良県下には全国で唯一、3つの世界遺産がある。国宝・重要文化財の総数は日本で3位だが、正倉院宝物をくわえると、堂々の1位だ。古刹・古社、名所・旧跡も数多い。あまりにも多いので、貴重な遺産に向かいあう心が鈍化しているようだ。

約40年前、初めて奈良に移り住んだとき、「お水取り(東大寺二月堂修二会)に行ったことがない」「おん祭りは行列(お渡り式)しか見たことがない」「正倉院展は見たことがない」という人があまりにも多くて、驚いた。

「地元民は『いつでも行けるから、急いで行くことはない』という気持ちがあるから、かえって関心がないのだな」と思った。しかし関心のない人は40年後の今でも行ったことがないようで、これは嘆かわしいし、もったいない。中には「小学校の頃から遠足も写生会も寺ばかりだったので、かえって寺が嫌いになった」という生粋の奈良市民もいた。


俗に「ヨソ者、若者、バカ者」と言うが、奈良県下で地域おこしの活動をしている人には、県外出身者が多い。私も和歌山県の出身だ。奈良まほろばソムリエ検定の「ソムリエ」合格者は、約半分が奈良市民だが、多くが「もと奈良府民」(奈良に移り住んで大阪などに通勤し、退職した人)だ。だから会議をすると、名古屋弁や東京弁・九州弁が飛び交う。

邪馬台国の「九州説」「畿内説(纏向説)」を比較検討していて、その違いがよく分かった。学説は多くが畿内説なのに、世論は半々か九州優勢なのだ。奈良県民の心の中に「奈良には遺産が多いから、邪馬台国くらいは九州にしてあげても良いかな」という気持ちがあるのではないか(もちろん私は畿内説を主張している)。奈良県民は、貴重な遺産に対する感性を、もっと研ぎ澄ますべきではないだろうか。


2.古代妄想( I/O 誇大妄想)
奈良県が輝いていたのは古代(古墳時代~平安時代)だけではない。奈良と聞いて、天平衣装でそぞろ歩く人をすぐ連想するのは行き過ぎというものだ。

当ブログによくコメントをくださるあをによし南都さんは「奈良の中世」に注目されている。南朝・後南朝も中世だし、筒井順慶・松永久秀は中世末、本居宣長や芭蕉が賛美したのは近世、天誅組は幕末で、土倉庄三郎は近代。「奈良には古代しかない→古代の史跡→面白くない」、という悪循環なのである。

ツアーを組むにしても、古代から離れると、訪問地のレパートリーがグンと増える。「奈良には古代しかない」というステレオタイプを捨てると、奈良がよく見える。廃すべきは「固定概念」である。
コメント (3)
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真田丸(17)再会

2016年05月08日 | 日々是雑感
いよいよ今日は「紀州九度山 真田まつり」の本番である。九度山はさぞ、賑わうことだろう。さてPCのトラブルで遅れていた前回(5/1)のNHK大河ドラマ「真田丸」の第17回「再会」を紹介する。NHKのHPからあらすじを拾うと、

信繁は、秀吉が家康の真田攻めを許したと知り驚く。必死で取り消すよう頼むが、秀吉は取り合わない。昌幸は、家康以上に秀吉への警戒を強める。一方、信繁は茶々に仕えることに。無邪気な茶々は信繁を翻弄する。やがて家康の上洛が決定するが、秀吉はある策を使うために信繁を利用しようとする。さらに、信繁の前に現れたのは、意外な人物によく似た女性だった。

信繁は、秀吉が家康の真田攻めを許したと知り、必死で取り消すよう頼む。秀吉は取り合わないが「真田は潰さない。これは徳川の出方を見るためにやっている」と本心を明かす。そのあと秀吉は話題を変え「ところでお前、茶々と仲がいいらしいな」と信繁に告げる。信繁は真っ青に。すると秀吉は「お前は利口な男だ、権三(ごんざ)とは違う」。権三とは加藤清正(新井浩文)に井戸に落として殺されたイケメンの馬廻衆(うままわりしゅう)だ。やはりあれは秀吉の指図だったのだ!

茶々(淀殿)は信繁を気に入ったようだが、大坂の陣ではことごとく信繁と意見が対立する。このあたりは司馬遼太郎の『城塞』に詳しいが、また大河ドラマの終盤で登場することだろう。今から、その変貌ぶりが楽しみだ。

さて秀吉は、一度は徳川に真田攻めを許しながらも、すぐに取り消しを命じる。その命に徳川が従うか否かで豊臣家への忠節心を試したわけだ。さらに秀吉は家康の上洛を促すが、家康はいっこうに動く気配がない。秀吉の妹旭姫を家康に嫁がせても、家康は上洛しない。そこで秀吉は、実の母を人質として徳川家に預ける。こうなれば家康も上洛せざるを得ない。これが秀吉のスゴいところだ。

旅芸人・出雲阿国の踊り子集団の中に、信繁は姉の松に酷似した女性を発見。姉は、確か崖から身を投げたはず。本人に会って話してみると、顔や姿は瓜二つ。しかし本人は「他人のそら似では」。戸惑う信繁。出雲阿国役はシルビア・グラブ、高嶋政宏の奥さんだ。政宏の弟の政伸は北条氏政。あの下品なご飯の食べ方をする男だ…。


なんだかとりとめのない話になってしまった。最後は藤丸タダアキさんの感想をブログ「地域活性局」から紹介しておく。

相変わらずコメディータッチの大河ドラマですね。とても違和感を覚えたのは福島正則と加藤清正です。加藤清正は背の高い、そしてかなり知的な人物です。この人物は土木行政にも精通していました。一方の福島正則は粗暴な男の日本代表です。二人の役柄は反対なのではないか。大河ドラマでは福島正則よりも加藤清正の方が背が低かったですね。ここにも何か今後の仕掛けがあるのではないかと勘繰ってしまいます。三谷幸喜は演出がうまいですね。その部分に期待しています。加藤清正と福島正則もまた面白い人物なので、また改めて書きます。

さて、片桐且元は家康の元に使者となって赴きます。家康の居城は浜松です。欣求浄土・厭離穢土という旗がたっていました。これは浄土宗の教えです。清らかな浄土に行きたいという意味らしいです。戦場になびくその旗に込められた意味。死を恐れずに進むことで浄土に行けるぞという意味でしょうか。家康は戦争の時の旗はこの旗が多かったようです。この時代は旗がユニークですね。ちなみに真田丸によく登場する石田三成がいます。彼の旗は大一大万大吉という旗です。一人ひとりが万民のために尽くせば人類は幸せになれるという意味のようです。

出雲阿国が出てきました。この人も生前は出雲阿国といわれていたわけではないそうです。国という名前の人だったようですね。出雲阿国の一団は現代で言えばサーカスでしょうか。実際はかなり内容が大人の内容だったそうですね。


さて、上洛しない家康・・・。秀吉はこれに持ち込むために妹を家康の正室名目の人質に出します。それでも上洛しない家康に今度は妹に母が会いに行く体で人質に出します。さて、大阪に上洛した家康に秀吉がこっそり前日に会いに行きます。これは実話のようなんです。秀吉の茶目っ気と厚顔なところに家康は心から安心したでしょう。この時、家康は確か1万人の兵隊を率いていました。陣羽織の話もこれも実話のようですね。どんな小説にもこの場面を熱っぽく書いてあります。実際にこの時の二人は本当に利害が一致したでしょう。

そして、真田昌幸の存在が大きくなっていきます。真田の持つ沼田(群馬県北部の盆地)領がその舞台です。徳川のアキレス腱になっています。ここは徳川と北条の和睦の条件に含まれていました。徳川は甲信越を領有し、北条は関東を領有する。そして真田は徳川に臣従していました。なので、北条は徳川に真田の持つ沼田領を渡すように求めます。それで、家康は真田に領地割譲を要求しました。真田は代替地がないため拒否しました。そして、上田合戦が起こりました。真田の圧勝でした。

家康はそれを解決できないうちに、秀吉に臣従します。家康の背後にいる北条にとってははらわた煮えくり返ったでしょう。家康は当初、秀吉に対抗するために北条と手を結んでいました。しかし、秀吉の勢威と誠意に参ってしまい、秀吉に臣従します。その結果、北条が浮きだちます。そしてその北条が領有を主張する沼田を持つ真田昌幸。

秀吉の天下統一戦の中で、東日本における真田の位置は非常に重要ですね。真田昌幸は上杉・徳川・北条を手玉に取って秀吉に臣従します。凄まじい人間ですね。こんな凄まじい父を持った息子2人は他にない体験を続けます。そしてやがて2名とも歴史に名前を残します。兄の信幸は家名を全力で守り抜きます。関ヶ原の戦いにおいて大冒険した父と弟を全力で助けました。弟の信繁は戦国時代の終焉となるの合戦、大阪の陣で活躍します。真田昌幸・真田信幸・真田信繁。すごい3人ですね。次回も楽しみです。
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真田丸(16)表裏

2016年05月07日 | 日々是雑感
いよいよ今日と明日(5/7~8)は紀州九度山真田まつり。天気も良さそうなので、ぜひ南海電車でお訪ねいただきたい。今回は、PC不調のため紹介が遅れていたNHK大河ドラマ「真田丸」第16回「表裏」(4/24放送)を紹介する。まずはNHKのHPからあらすじを。
※画像はすべてNHKの番組ホームページから拝借

秀吉が上杉景勝に真田への支援を禁じたと知った信繁はショックを受ける。秀吉はその信繁を自らの護衛役、馬廻(まわり)衆に加える。信繁は秀吉と行動を共にするうち、秀吉が熱を上げる茶々に気に入られてしまう。一方、家康は真田攻めの準備を終えようとしていた。昌幸は上杉に援軍を求めるが断られてしまう。故郷が絶体絶命の危機を迎える中、信繁は―。

信繁は上杉の人質であり、景勝に連れられて大坂城に来た。しかし、突然景勝は地元に帰ってしまう。その裏には秀吉の深謀遠慮があったのだが、信繁はいきなり秀吉から「あいつは帰った。お前のことは何も言っていなかった」と言われる。「私はどうすればいいのですか?」と聞くと「じゃあわしの家臣になれ」。結局信繁は秀吉の馬廻衆(親衛隊)に加わり、大坂城で働くことになった。信繁は茶々に気に入られるが、何しろ茶々に気に入られたイケメンの前任者が秀吉に殺されたので、信繁は気が気ではない…。

この回には、賤ヶ岳七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)の1人、平野長泰が登場する。長泰は田原本を治めた人である。Wikipedia「平野長泰」によると、

尾張国津島の出身で、若くして羽柴秀吉に仕えた。本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家が天正11年(1583年)近江国賤ヶ岳で決戦をした(賤ヶ岳の戦い)際に福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして賤ヶ岳の七本槍と称えられた。その後、秀吉の天下統一の戦いの中、長泰も戦功を重ね、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。

慶長2年(1597年)、従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓を下賜された。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。秀忠が率いた軍は関ヶ原の本戦に間に合わなかったため、目立った手柄を立てることはできなかった。大坂の陣では豊臣方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。終始豊臣方であり続けようとする気骨などが災いして、七本槍の中で唯一人大名とはなれなかったが、子孫は九代続いて明治まで生き残り、明治新政府の高直しにより大名・田原本藩となった。




平野氏の名残は田原本町の津島神社に残っている。《江戸時代には、領主平野家の尊崇をあつめ、毎年米1石5斗の寄進を受けた。明治2年には、平野家の本貫地尾張国津島にあった津島社も祭神を牛頭天王とすることから、社名を津島神社と改めることとなった》(同町のHP)というものである。毎年7月の第2土日には、ここで祇園祭が行われる。

では例によって最後に藤丸タダアキさんのブログから、彼の感想を紹介しておく。

大坂で微妙な立場に立ちつつある信繁。大河ドラマ真田丸16話は着々と秀吉の天下が固まる中で真田家の微妙な立場が紹介されています。平野長泰が出てきました。彼は奈良の田原本の町を作った人ですね。彼には面白い逸話があるのですが、あまり関係がなさそうなので、省略します。片桐且元も平野長泰も柴田勝家との戦いにおいて活躍した賤ヶ岳七本槍の2名ですね。賤ヶ岳七本槍には加藤清正や福島正則もいました。その7本槍の7人は出世のスピードが違いました。

ちなみにドラマ終了後に清正の育った愛知県津島の紹介がありました。平野長泰も実はこの津島の出身だといわれています。田原本には津島神社がありますね。片桐且元も平野長泰も元同僚にも関わらず、身分に差ができている滑稽さを描いていました。しかし、福島正則や加藤清正はもっと出世をしていました。そして千利休が出てきました。私は表千家の門人なので、利休という人は聖人のような人です。しかし、このドラマでは嫌な人の雰囲気が出ていますね。

九州征伐の話が出てきました。当時、戦国大名の生き残りとして、大友宗麟がいました。大友宗麟は島津の猛攻に耐えかねて、秀吉に臣下します。その時に秀吉は宗麟にこのような言葉を残しています。「外のことは秀長に、なかのことは利休に」。秀吉の弟、秀長と千利休のこの当時の権力を物語っています。石田三成や大谷吉継は戦争よりも内政に力を入れています。秀吉が九州平定に動員した兵隊は20万人を越えました。20万人も遠征します。その兵隊の輸送の舟の手配、食糧の手配などを三成などが行ったそうです。その処理の正確さは秀吉の天下統一に大きく貢献したでしょう。

一方、茶々の存在が際立っています。茶々は後に淀君と呼ばれ、豊臣家に君臨します。後に大坂の陣における豊臣方の事実上、最高責任者となる茶々と信繁の関係は大阪の陣においては険悪だったはずです。



そして秀長が登場します。秀長は天下の副将軍です。秀吉の功績の3分の1ぐらいは秀長の力だったでしょう。秀長は後に奈良・和歌山で100万石の領地を治めます。大和大納言秀長ですね。秀長は中世奈良の権力者だった南都の大寺の領地を徹底的に削ったといわれています。そして、徳川の方に場面が変わりました。本多忠勝の娘が出てきました。この娘もまた、真田丸の大事な登場人物です。なんと、この本多忠勝の娘は真田信幸の娘になります。徳川家の重臣の娘を長男の嫁にもらう。これは重大な意味があります。

昌幸は実は家康と講和をするときに縁組まで行ったんですね。徳川は第一次上田合戦の際に真田に負けています。家康らしいです。真田を高く評価したんですね。家康は物学びのできる人物でした。こうやって敗戦しながらも学び・相手を吸収していきます。信長であれば根絶やしにします・・・。

ここに面白い話があります。昌幸は当初、本多忠勝の娘を信幸の嫁にもらうことを拒否しました。理由は、真田は小さいながらも大名であり、大名の家来の娘はもらえないと拒否しました。家康は仕方なく、忠勝の娘を自分の養女として真田家に嫁がせます。忠勝の娘への甘い雰囲気がとても親子っぽくてよかったですね。そして、真田討伐という話になっていきますが、これは次回ですね。


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