いよいよ今日と明日(5/7~8)は紀州九度山真田まつり。天気も良さそうなので、ぜひ南海電車でお訪ねいただきたい。今回は、PC不調のため紹介が遅れていたNHK大河ドラマ「真田丸」第16回「表裏」(4/24放送)を紹介する。まずはNHKのHPからあらすじを。
※画像はすべてNHKの番組ホームページから拝借
秀吉が上杉景勝に真田への支援を禁じたと知った信繁はショックを受ける。秀吉はその信繁を自らの護衛役、馬廻(まわり)衆に加える。信繁は秀吉と行動を共にするうち、秀吉が熱を上げる茶々に気に入られてしまう。一方、家康は真田攻めの準備を終えようとしていた。昌幸は上杉に援軍を求めるが断られてしまう。故郷が絶体絶命の危機を迎える中、信繁は―。
信繁は上杉の人質であり、景勝に連れられて大坂城に来た。しかし、突然景勝は地元に帰ってしまう。その裏には秀吉の深謀遠慮があったのだが、信繁はいきなり秀吉から「あいつは帰った。お前のことは何も言っていなかった」と言われる。「私はどうすればいいのですか?」と聞くと「じゃあわしの家臣になれ」。結局信繁は秀吉の馬廻衆(親衛隊)に加わり、大坂城で働くことになった。信繁は茶々に気に入られるが、何しろ茶々に気に入られたイケメンの前任者が秀吉に殺されたので、信繁は気が気ではない…。
この回には、賤ヶ岳七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)の1人、平野長泰が登場する。長泰は田原本を治めた人である。Wikipedia「平野長泰」によると、
尾張国津島の出身で、若くして羽柴秀吉に仕えた。本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家が天正11年(1583年)近江国賤ヶ岳で決戦をした(賤ヶ岳の戦い)際に福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして賤ヶ岳の七本槍と称えられた。その後、秀吉の天下統一の戦いの中、長泰も戦功を重ね、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。
慶長2年(1597年)、従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓を下賜された。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。秀忠が率いた軍は関ヶ原の本戦に間に合わなかったため、目立った手柄を立てることはできなかった。大坂の陣では豊臣方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。終始豊臣方であり続けようとする気骨などが災いして、七本槍の中で唯一人大名とはなれなかったが、子孫は九代続いて明治まで生き残り、明治新政府の高直しにより大名・田原本藩となった。
平野氏の名残は田原本町の津島神社に残っている。《江戸時代には、領主平野家の尊崇をあつめ、毎年米1石5斗の寄進を受けた。明治2年には、平野家の本貫地尾張国津島にあった津島社も祭神を牛頭天王とすることから、社名を津島神社と改めることとなった》(同町のHP)というものである。毎年7月の第2土日には、ここで祇園祭が行われる。
では例によって最後に藤丸タダアキさんのブログから、彼の感想を紹介しておく。
大坂で微妙な立場に立ちつつある信繁。大河ドラマ真田丸16話は着々と秀吉の天下が固まる中で真田家の微妙な立場が紹介されています。平野長泰が出てきました。彼は奈良の田原本の町を作った人ですね。彼には面白い逸話があるのですが、あまり関係がなさそうなので、省略します。片桐且元も平野長泰も柴田勝家との戦いにおいて活躍した賤ヶ岳七本槍の2名ですね。賤ヶ岳七本槍には加藤清正や福島正則もいました。その7本槍の7人は出世のスピードが違いました。
ちなみにドラマ終了後に清正の育った愛知県津島の紹介がありました。平野長泰も実はこの津島の出身だといわれています。田原本には津島神社がありますね。片桐且元も平野長泰も元同僚にも関わらず、身分に差ができている滑稽さを描いていました。しかし、福島正則や加藤清正はもっと出世をしていました。そして千利休が出てきました。私は表千家の門人なので、利休という人は聖人のような人です。しかし、このドラマでは嫌な人の雰囲気が出ていますね。
九州征伐の話が出てきました。当時、戦国大名の生き残りとして、大友宗麟がいました。大友宗麟は島津の猛攻に耐えかねて、秀吉に臣下します。その時に秀吉は宗麟にこのような言葉を残しています。「外のことは秀長に、なかのことは利休に」。秀吉の弟、秀長と千利休のこの当時の権力を物語っています。石田三成や大谷吉継は戦争よりも内政に力を入れています。秀吉が九州平定に動員した兵隊は20万人を越えました。20万人も遠征します。その兵隊の輸送の舟の手配、食糧の手配などを三成などが行ったそうです。その処理の正確さは秀吉の天下統一に大きく貢献したでしょう。
一方、茶々の存在が際立っています。茶々は後に淀君と呼ばれ、豊臣家に君臨します。後に大坂の陣における豊臣方の事実上、最高責任者となる茶々と信繁の関係は大阪の陣においては険悪だったはずです。
そして秀長が登場します。秀長は天下の副将軍です。秀吉の功績の3分の1ぐらいは秀長の力だったでしょう。秀長は後に奈良・和歌山で100万石の領地を治めます。大和大納言秀長ですね。秀長は中世奈良の権力者だった南都の大寺の領地を徹底的に削ったといわれています。そして、徳川の方に場面が変わりました。本多忠勝の娘が出てきました。この娘もまた、真田丸の大事な登場人物です。なんと、この本多忠勝の娘は真田信幸の娘になります。徳川家の重臣の娘を長男の嫁にもらう。これは重大な意味があります。
昌幸は実は家康と講和をするときに縁組まで行ったんですね。徳川は第一次上田合戦の際に真田に負けています。家康らしいです。真田を高く評価したんですね。家康は物学びのできる人物でした。こうやって敗戦しながらも学び・相手を吸収していきます。信長であれば根絶やしにします・・・。
ここに面白い話があります。昌幸は当初、本多忠勝の娘を信幸の嫁にもらうことを拒否しました。理由は、真田は小さいながらも大名であり、大名の家来の娘はもらえないと拒否しました。家康は仕方なく、忠勝の娘を自分の養女として真田家に嫁がせます。忠勝の娘への甘い雰囲気がとても親子っぽくてよかったですね。そして、真田討伐という話になっていきますが、これは次回ですね。
※画像はすべてNHKの番組ホームページから拝借
秀吉が上杉景勝に真田への支援を禁じたと知った信繁はショックを受ける。秀吉はその信繁を自らの護衛役、馬廻(まわり)衆に加える。信繁は秀吉と行動を共にするうち、秀吉が熱を上げる茶々に気に入られてしまう。一方、家康は真田攻めの準備を終えようとしていた。昌幸は上杉に援軍を求めるが断られてしまう。故郷が絶体絶命の危機を迎える中、信繁は―。
信繁は上杉の人質であり、景勝に連れられて大坂城に来た。しかし、突然景勝は地元に帰ってしまう。その裏には秀吉の深謀遠慮があったのだが、信繁はいきなり秀吉から「あいつは帰った。お前のことは何も言っていなかった」と言われる。「私はどうすればいいのですか?」と聞くと「じゃあわしの家臣になれ」。結局信繁は秀吉の馬廻衆(親衛隊)に加わり、大坂城で働くことになった。信繁は茶々に気に入られるが、何しろ茶々に気に入られたイケメンの前任者が秀吉に殺されたので、信繁は気が気ではない…。
この回には、賤ヶ岳七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)の1人、平野長泰が登場する。長泰は田原本を治めた人である。Wikipedia「平野長泰」によると、
尾張国津島の出身で、若くして羽柴秀吉に仕えた。本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家が天正11年(1583年)近江国賤ヶ岳で決戦をした(賤ヶ岳の戦い)際に福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして賤ヶ岳の七本槍と称えられた。その後、秀吉の天下統一の戦いの中、長泰も戦功を重ね、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。
慶長2年(1597年)、従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓を下賜された。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。秀忠が率いた軍は関ヶ原の本戦に間に合わなかったため、目立った手柄を立てることはできなかった。大坂の陣では豊臣方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。終始豊臣方であり続けようとする気骨などが災いして、七本槍の中で唯一人大名とはなれなかったが、子孫は九代続いて明治まで生き残り、明治新政府の高直しにより大名・田原本藩となった。
では例によって最後に藤丸タダアキさんのブログから、彼の感想を紹介しておく。
大坂で微妙な立場に立ちつつある信繁。大河ドラマ真田丸16話は着々と秀吉の天下が固まる中で真田家の微妙な立場が紹介されています。平野長泰が出てきました。彼は奈良の田原本の町を作った人ですね。彼には面白い逸話があるのですが、あまり関係がなさそうなので、省略します。片桐且元も平野長泰も柴田勝家との戦いにおいて活躍した賤ヶ岳七本槍の2名ですね。賤ヶ岳七本槍には加藤清正や福島正則もいました。その7本槍の7人は出世のスピードが違いました。
ちなみにドラマ終了後に清正の育った愛知県津島の紹介がありました。平野長泰も実はこの津島の出身だといわれています。田原本には津島神社がありますね。片桐且元も平野長泰も元同僚にも関わらず、身分に差ができている滑稽さを描いていました。しかし、福島正則や加藤清正はもっと出世をしていました。そして千利休が出てきました。私は表千家の門人なので、利休という人は聖人のような人です。しかし、このドラマでは嫌な人の雰囲気が出ていますね。
九州征伐の話が出てきました。当時、戦国大名の生き残りとして、大友宗麟がいました。大友宗麟は島津の猛攻に耐えかねて、秀吉に臣下します。その時に秀吉は宗麟にこのような言葉を残しています。「外のことは秀長に、なかのことは利休に」。秀吉の弟、秀長と千利休のこの当時の権力を物語っています。石田三成や大谷吉継は戦争よりも内政に力を入れています。秀吉が九州平定に動員した兵隊は20万人を越えました。20万人も遠征します。その兵隊の輸送の舟の手配、食糧の手配などを三成などが行ったそうです。その処理の正確さは秀吉の天下統一に大きく貢献したでしょう。
一方、茶々の存在が際立っています。茶々は後に淀君と呼ばれ、豊臣家に君臨します。後に大坂の陣における豊臣方の事実上、最高責任者となる茶々と信繁の関係は大阪の陣においては険悪だったはずです。
そして秀長が登場します。秀長は天下の副将軍です。秀吉の功績の3分の1ぐらいは秀長の力だったでしょう。秀長は後に奈良・和歌山で100万石の領地を治めます。大和大納言秀長ですね。秀長は中世奈良の権力者だった南都の大寺の領地を徹底的に削ったといわれています。そして、徳川の方に場面が変わりました。本多忠勝の娘が出てきました。この娘もまた、真田丸の大事な登場人物です。なんと、この本多忠勝の娘は真田信幸の娘になります。徳川家の重臣の娘を長男の嫁にもらう。これは重大な意味があります。
昌幸は実は家康と講和をするときに縁組まで行ったんですね。徳川は第一次上田合戦の際に真田に負けています。家康らしいです。真田を高く評価したんですね。家康は物学びのできる人物でした。こうやって敗戦しながらも学び・相手を吸収していきます。信長であれば根絶やしにします・・・。
ここに面白い話があります。昌幸は当初、本多忠勝の娘を信幸の嫁にもらうことを拒否しました。理由は、真田は小さいながらも大名であり、大名の家来の娘はもらえないと拒否しました。家康は仕方なく、忠勝の娘を自分の養女として真田家に嫁がせます。忠勝の娘への甘い雰囲気がとても親子っぽくてよかったですね。そして、真田討伐という話になっていきますが、これは次回ですね。
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