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田中利典師、被災地に立つ(2)

2023年06月16日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、東日本大震災被災地での感慨の第2回(師のブログ 2012.3.14 付)である。師は、1年を経てなお進まない復興の歩み(行政の対応)に苛立ちを感じながらも、工場を再開し、たくましく働く人々の姿に感銘を受けた。「個々の努力、生きるための生業がこの土地を、この地に暮らす人々を復興に導くのだ」と。では全文を以下に紹介する。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/31撮影)

東北にて。
阪神淡路大震災(1995年)では何度も炊き出しに出向いた。震災が起きた1月17日朝5時46分には、一周忌から13年間、毎年、神戸の街を慰霊行脚した。そして東日本大震災。

この1年間、1度も救援活動には来れなかったが、震災の翌日から2時46分の祈りを行った。そしてまる1年が過ぎて、12日から東北入り…。大船渡、陸前高田、南三陸町、石巻、仙台と、宗門の関係する人々を見舞って回った。その道すがら、甚大なる被災地のようすを目の当たりにして、心痛む以外はなすすべもなく、茫茫たる大地の上に立ち尽くし、ひとり般若心経を唱えていた。

被災当初はもっともっと悲惨な光景が繰り広げられたことは想像を超えているだろう。失われた命の悲しさに、空も海も大地もきっと満ちあふれていたに違いない。膨大な家や人の生活や多くの命が失われた大地に、北風がひゅうひゅうと、うなっていた。でも人はまた生活をはじめ、前に進もうとしている。

もちろん目の前に広がる光景は神戸の震災時と比べると、1年を経てなお動いていないという実感がある。神戸の3ヶ月後のような、いやそれ以下のような、復興の軌跡。神戸と比べて、その被害も範囲も、規模が全く異なることを考慮にいれても、なお進まない行政の対応にいらだちは感じた。しかし人は確実に歩みをはじめている。

今年2月からアーユス(国際協力NGO)関西支部のご縁で、支援をさせていただいている石巻の丸平鰹節工場を訪ねた。被災を乗り越えて操業を開始した工場で、阿部専務さんら、被災当時の状況やその後の取り組みなどのお話を聞かせていただいた。突然の訪問だったが、親切に対応いただいた。

工場は2階の胸あたりまで津波が押し寄せ、干ものの製造など主要な機材は全滅したが、幸い3階で操業をしていた鰹節の製造ラインは無傷だったので、従業員を誰も解雇せず、多くの人の支援を得ながら、再開したとのこと。

そういう個々の努力、生きるための生業がこの土地を、この地に暮らす人々を復興に導くのだと、心からそう思った。ご縁で繋がった人々を少しでも支援出来たらと思っている。

昨日も日記に書いたが、個人的に懊悩する日々をここ数週間生きたが、改めて、大災害を前に、「風化しなければいけないこと、風化しては絶対いけないこと、そして風化の中で生きること」…生きて生かされていることを、東北の空が語りかけていてくれたような気がする。きれい事のように聞こえるが、そういう所からしか、始まらないのだと私は思っている
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