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ユネスコ世界文化遺産「吉野大峯」登録20周年回顧録 by 田中利典師

2024年05月28日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、過去のお行の日記からは離れ、『月刊奈良』(2024年4月号)に執筆された〈ユネスコ世界文化遺産「吉野大峯」登録20周年回顧録 〉を紹介する。師はこれをご自身のFBに2回(2024.5.27~28)わたって紹介された。当ブログでは、これを一挙に紹介する。

実はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、6/9(日)、会員を対象とした利典師による90分の講演会を予定している、演題は「修験道の今日まで、そして明日から~吉野大峯・世界遺産登録20周年記念講演~」である。14時半頃から、東大寺総合文化センター(東大寺ミュージアム)地下小ホールで開催する。この回顧録は、その良い「予習」にもなることだろう。

今年は金峯山寺を含む「吉野大峯」がユネスコの世界文化遺産に登録されて20周年を迎える。当時しゃかりきに活動した私としては感慨深い。10周年事業までは猛烈に駆け抜けた。その当時のことを書きませんかと『月刊奈良』から依頼を受けて、4月号に書かせていただいた。よろしければお読み下さい。

◆運は動より生ず
「運は動より生ず」というが、まず動きを始めることで運は動き出す。物事の精査とか課題はたくさんあるだろう。けれど、そのときの直感とひらめき、やってきた諸縁によって動くのがいいんだろうな。私のこれまでの人生経験ではそういうことになっている。

まずは、動きを始める。先のことはわかりっこない。それでいいんだ。でも動き出すことで、宇宙のシステムというのか、神仏の働きというのか、運勢はサポートしてくれる。そんな感じで生きてきた。

◆役行者大遠忌事業が契機
吉野大峯の世界遺産登録のきっかけは、修験道史上初めて修験三本山(本山派修験/聖護院、当山派修験/醍醐寺、吉野修験/金峯山寺)合同によって催行された開祖役行者神変大菩薩1300年大遠忌事業であった。

本事業の準備は平成7(1995)年頃から始まったが、平成11(1999)年にはプレイベントとして大阪・東京の2会場で「役行者と修験道の世界」特別展(修験三本山・毎日新聞社・開催館主催)を開催し、さらに本番の平成12(2000)年8月には三本山と大峯山寺合同による大遠忌法要などが執行され、大遠忌に相応しい数々の歴史的な事業が成し遂げられた。

その中の「役行者特別展」でのこと。本展の企画統括を担当されたのは自称「役行者オタク」の大阪市立美術館学芸員(当時)の石川知彦氏だが、その石川氏から「りてんさん、せっかく出来た三本山合同の連帯を、吉野大峯一帯の世界遺産登録運動につなげるのはどうだろうか」と提案を受けた。

当時、世界遺産という概念自体、まだまだ日本では認知が低かったが、おもわず「それ、私やります!」と即断した。それがその後の運を動かすことになっていく。

◆世界遺産ってなに
といっても、肝心の「世界遺産」のことがなにもわかってない。法隆寺と姫路城が世界遺産だったなあ…くらいのこと。一からの学び始め。世界遺産とは、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へ、そして未来の世代に引き継いでいくべきかけがえのない宝物のことだ。

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が「人類共通の遺産」として保護・保全していくための国際的な協力体制を築く国際条約として昭和47(1972)年に「世界遺産条約」を採択した。日本はこの条約の批准が20年遅れたために、当時はまだまだ国内での世界遺産の認知度は低かった。

◆動き出せば誰かに会う、そしてどこかに連れて行ってくれる
物事を成し遂げるのはまず発心を持つこと。そうすると誰かに出会う。その出会った人がその先へ連れて行ってくれる。本格的な登録活動を始めたのは平成12(2000)年の春だった。紆余曲折はあったものの、登録要件である文化庁の文化審議会に、熊野・高野とともに吉野大峯の三霊場が答申されたのはその年の11月だった。

手を挙げてこんなに早く答申された前例はなかった。これは吉野町、天川村、奈良県それぞれの担当者の努力のたまもの。そして、修験三本山の後押しや、吉野大峯の登録運動に先んじて始めていた熊野と高野の動きと吉野大峯の活動が一体となったことが、担当所管の文化庁を動かすことになった。

走り出して、本当に多くの人に出会い、人と人との力で道は拓かれていった。まさに運は動より生ずである。ほんとに運に恵まれた。ただし、地元の吉野山にしても奈良県にしても諸手を挙げて大賛成という滑り出しではなかった。当時の県の文化財保存課長からちょろちょろ動くなと叱責されたり、地元からも世界遺産になんてそんな簡単になるかよ、と揶揄され鼻で笑われたこともあった。

それでも平成16(2004)年7月。吉野大峯は熊野三山と高野山とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産リストに登載されることが決定する。活動を始めてから4年。まさに世界最速であった。奈良県としては法隆寺地域の仏教建造物、古都奈良の文化財に次ぐ3件めの登録である。 

◆世界遺産の第一の門番(custodian:カストーディアン)を目指す!
吉野大峯は開祖役行者以来、日本独自の民俗宗教修験道の聖地である。その聖地性のもとに吉野ではさまざまな歴史が繰り広げられてきた。天武・持統天皇の行幸、藤原道長の御嶽詣で、源義経の吉野潜行、日本一の桜の名勝地としての発展、南北朝の動乱、太閤の花見などなど枚挙に暇がないほど多彩な歴史と文化を持ち得た地である。

が、明治以降、神仏分離施策と修験道の衰退と相まって、聖地性も歴史の唯一性も損なわれてきた感があった。世界遺産登録の目指すものは、吉野の地が持ち得た宝物は日本の至宝であること。そして世界の宝物として、再認識を図るとともに先々まで保護・保全に努めていくことである。登録がゴールではなく、登録が保護・保全のスタートでなければならない。

そのために私は、登録年には世界遺産登録記念特別展「祈りの道~吉野・熊野・高野の名宝~」(三重県、奈良県、和歌山県、世界遺産登録推進三県協議会、毎日新聞社、NHK、開催館主催)を大阪・名古屋・東京の三会場で企画開催し、さらに大峯奥駈道保全連絡協議会や紀伊山地三霊場会議など、登録地域の保護・保全のための、宗教と行政が連帯した協議会などを発足させた。

今年で吉野大峯の世界遺産登録は20周年を迎える。イコモス(国際記念物遺跡会議)が定めた『国際文化観光憲章』の中の第一の門番(custodian)とは、世界遺産の自然と文化を守っていく役目を担う人々のことを指す。世界遺産の第一の門番こそ、世界遺産に関わる金峯山寺など構成施設をはじめとする地域の人々の意識有る取り組みである。

世界遺産登録によって、人類共有の宝物である貴重な世界遺産が、心ない観光開発にのみ利用され、肝心の保護・保全活動に結びつかないという、過去に起こったような失敗例に陥らせてはならない。

それぞれのキーマンとなる方は、「世界遺産の第一の門番」としての役割を大いに担っていただきたいものだ。登録20周年の慶事を前に改めて記して、私の拙き回顧録とする。






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