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邪馬台国を考える(2)「纒向の建物群」 by 橋本輝彦氏

2016年02月09日 | 奈良にこだわる
前回の井沢元彦氏に続く第2回は、橋本輝彦さん(桜井市纒向学研究センター主任研究員)のお話である。橋本さんは朝日選書『研究最前線 邪馬台国』の「第7章 纒向遺跡で、いま、何が言えるのか」の執筆者である(2010年7月開催の講演記録)。

私も、ご本人にお会いしたことがある。桜井市で発掘調査に携わっておられる立場から、2009年に発見された大型建物などに関して詳しくお話されている。では、以下に要点を抜粋する。

纒向遺跡が出現する前の奈良盆地の弥生時代の拠点となる集落遺跡は、奈良盆地最大で2世紀後半段階の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡、これとほぼ同規模の坪井・大福遺跡(橿原市および桜井市)などがありますが、纒向はこれらを10個ぐらいすはのみ込む規模があります。

おそらく古墳時代を通じても国内で最大の遺跡になるかと思います。いまのところピーク時の遺跡の規模は東西2キロ、南北1.5キロと推定されていますが、北側はさらに遺跡が大きくなる可能性があります。

最近の調査では、纒向遺跡には2つの画期があることがわかっています。まず第1の画期は庄内式土器出現のころ。

第2の画期は、布留(ふる)式土器出現のころ。


 研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか
 石野博信・高島忠平・西谷正・吉村武彦 編
 朝日選書(朝日新聞出版)

遺跡が拡大したときに纒向遺跡内に築かれるのが前方後円墳の箸墓古墳です。これは日本の考古学者の誰もが認める最古の前方後円墳です。箸墓以前、庄内式段階の集落に対応する墓には纒向型前方後円墳とよばれる前方後円形の墓があります。

纒向のなかで、3世紀後半に飛躍的に大きな前方後円墳の箸墓古墳の築造が始まったり、あるいは居館が移転したりと、大きな画期があったことになりそうです。そして布留1式期の4世紀初頭段階になると、部分部分でしか土器や遺構がみつからなくなります。生活の痕跡、人間の痕跡がほとんどなくなります。国内最大の遺跡が突然というか、ある段階にさっとなくなってしまうというのも、纒向の大きな特徴だと思います。

日本の国のなかで一番はじめに前方後円墳が築造され始めた場所が纒向だということ、邪馬台国が九州だろうが近畿だろうが関係なく、これこそが現在確実にいえる巻向遺跡の本当の価値、存在の意義だと思っています。

纒向遺跡は大和の人間だけが住み、大和の人間だけで構成されていた集落ではなくて、列島内各地から人々が集まって、いろいろな思想が混ざり合う形で、運営されていたといわれています。

纒向遺跡からみつかっているもののなかには断面形状がかまぼこ形をした、北部九州にみられるタイプのもの(ふいごの羽口)が含まれており、この送風管の形の分析から、鉄の加工技術には北部九州系の鍛冶技術が導入されたのではないかといわれるようになってきています。

建物群の性格については、ここで卑弥呼が寝ていたとか(笑)、卑弥呼の宮殿だとか、いろいろとおっしゃる方もおられますが、現場で調査を担当している私どもとしては、現在の段階では、ここに卑弥呼がいたかどうかなんて、まったくわからないとしか言いようがありません。最終的に「卑弥呼」と書いたものでも出てこない限り、決着はつかないですし、そんなものが出てくるとは、いまの段階では思ってもおりません。

卑弥呼が生きていた年代と建物群の年代は、時期が一致するものです。そういう意味では卑弥呼の宮殿の候補の1つにはなるかもしれません。しかしそれよりも、注目していただきたいのは、日本で複数の建物をこれほど精緻にそろえる構造物が纒向ではじめて構築されたという点です。これこそが発見の一番の意義だと思っています。

4世紀、5世紀、6世紀には、特にこの桜井周辺の地域に大王、天皇の宮殿があったことが文献に出てきます。しかし現在、飛鳥時代の宮殿より前のもので、考古学的な調査でその存在が確認された例は皆無です。

後の飛鳥・藤原、そして平城という、天皇の宮殿へのつながり、あるいはその前にある大王の宮殿への流れを考えていくなかで、この纒向の建物群が日本の国のなかではじめて大和に現れることの意義、大和政権、国家の誕生との関係のなかで、この建物群を積極的に評価してほしいと思います。

いかがだろう。「複数の建物をこれほど精緻にそろえる構造物が纒向ではじめて構築」され、ほかに「飛鳥時代の宮殿より前のもので、考古学的な調査でその存在が確認された例は皆無」という類例のない大型建物群発見の意義は大きい。ベニバナの花粉や木製の仮面、2765個の桃の種とともに「邪馬台国畿内説」の大きな根拠の1つとなっている。

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2 コメント

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楽しみです (tetsuda)
2016-02-25 17:32:47
りひとさん、コメントありがとうございました。

あんな断片だけでふいごと分かるのは、すごいです。ベニバナの花粉にしても、よほど分析技術が進んでいるのですね。纏向では、今も発掘が進められています。今後の調査結果が楽しみです。
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ふいご (りひと)
2016-02-11 20:56:46
秋津遺跡でも確か出ていたような気がします。鞴はドイツのかっこう時計が壊れて中をみてびっくりして興味を持ち始め今でも大好きなふいごです。
花粉で言えばバジルの花粉がどこかで発見され大陸との接点がすでにあった可能性も出てきているようです。
奈良の今後は楽しみですね。5672
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