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田中利典師の「修験道といま(4)奥駈修行」(読売新聞)

2023年09月07日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「修験道といま(4)奥駈修行」(師のブログ 2013.7.14 付)。2008年8月に読売新聞夕刊に連載されたエッセイの第4回である。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28撮影)

4泊5日の大峯奥駈(おくがけ)修行は、危険な行場のある命がけの修行であるが、毎年参加する人がいて、「これをやらないと、一年のけじめがつかない」のだそうだ。そんな奥駈修行の魅力とは何か。師はこれを、「ハレとケ」で解き明かす。以下に全文を抜粋するので、お読みいただきたい。

今朝は東南院の奥駈修行の出発を朝4時に見送った。厳しい修行である。さて昨日の続き。

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「修験道といま(4)奥駈修行」

大峯修験に関わる修験寺院の多くが夏になるとこぞって、吉野ー熊野間の奥駈修行に赴く。金峯山寺でも4泊5日の日程で、吉野ー前鬼ー熊野を行じている。この行は金峯山寺が通常募集している体験的な修行と違って、危険な行場も伴う本格的山伏修行であるが、そんな命がけの修行にも一般からの参加者は多い。何度か来る内に、資格をとって正式な山伏になる人までいる。

この行に毎年参加する人たちは「これをやらないと一年のけじめがつかない」と口を揃えて言う。一年の中心をこの修行の参加においている人もいる。こんな奥駈修行の魅力とはなんなのだろう。

私は日本人が長い年月を掛けて身につけてきた日常の生活慣習に畏敬の念を持っているが、その一つに、「ケ」と「ハレ」を行き来するという日本的知恵がある。日本人は日常を「ケ」と考えた。私たちは終わらない日常を生きているが、日常生活ではだんだん「ケ」がつくと考える。ケガレの「ケ」である。

「ケ」がつくと次第に気が枯れてくる。だからケガレる。気が枯れてケガレると、気が弱り、ついには病気になる。だから病気になる前に、「ケ」を落とす必要がある。気を元に戻せば、元気になるのである。

そのために行うのが「ハレ」である。晴れ着は「ハレ」の場所に行く着物のことをいうが、その「ハレ」とは聖なるものに触れることであり、それはまた非日常の場に行くことでもある。お正月や端午の節句などの五節句や、夏や秋のお祭りはもともとは「ハレ」を行うものだった。その日常の「ケ」と非日常の「ハレ」を行き来する中で、私たち日本人は一年を健やかに暮らしてきたのである。

その「ケ」と「ハレ」を行き来する装置のような慣習を現代社会は失った気がする。毎日が「ハレ」の如く饗応する社会があり、日常の「ケ」だけが増大して、癒しとなるべき非日常を喪失してしまったのである。忌まわしい無差別殺人や尊属殺人が毎日のように報じられるが、現代社会はまさに気が枯れた人間たちに満ちあふれている。

私たち山伏修行にはその失った非日常としての「ハレ」が今も脈々といきづいていると、私は自負している。山修行では一日12時間以上山中を歩く。奥駈ではそれが何日も続く。神を拝み仏を拝み、大自然の中で自分をこえたサムシンググレートに対し畏敬の念を持って行じ続ける。神仏とはまさに聖なるものであり、山中こそ、非日常である。この「ハレ」に触れたとき、私たちは日常生活に枯れていた「ケ」を洗い落として、元気を取り戻し、正気に戻るのである。

最初に書いた「奥駈修行に来ないことには一年のけじめがつかない」というのは実に見事に、この「ケ」と「ハレ」を行き来する知恵が甦り、身についたからに違いない、と私は考えている。(読売新聞2008年8~9月掲載)
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