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田中利典師の「修験道といま(2)無痛文明時代」(読売新聞)

2023年09月03日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「修験道といま(2)無痛文明時代」(師のブログ 2013.7.12 付)、2008年8~9月に読売新聞夕刊に連載されたエッセイの第2回である。「無痛文明時代」とは、森岡正博氏が著書『無痛文明論』(トランスビュー刊)で指摘している話である。本書は、版元の「内容説明」によると、
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28付)

快を求め、苦しみを避ける方向へと突き進む現代文明。その流れのなかに、われわれはどうしようもなく飲み込まれ、快と引き替えに「生きる意味」を見失う…。現代文明と人間の欲望を、とことんまで突き詰めて描いた著者の代表作。

この話は以前にも師は、〈シリーズ「山人vs楽女/奥駈病という病い」⑮〉として紹介されたことがある。山修行は、無痛文明時代への妙薬になっているのだ。ぜひ以下の全文をお読みいただきたい。

「修験道といま(2)」無痛文明時代

修験道の魅力のひとつは身体性を持っていることだ。修験とは実修実験、あるいは修行得験ともいう。実際に自分の身体を使って修行をし、験(しるし)を得るという意味である。理屈ではなく、自分の五体を通じて実際の感覚を得る宗教なのである。

生命学者の森岡正博氏が面白い文明論を展開されている。曰く、現代社会は物質文明が高度に進んだ結果、無痛文明に陥っている。往古は自分で歩くしか移動の方法はなかったのに車や飛行機が発達し、家事すら、掃除は掃除機が、洗濯は洗濯機がする、そんな時代になって、自分自身の肉体を使うことが極端に減ってきた。つまり体が楽することばかりを優先する社会が生まれてきたという。

これを無痛文明、痛みを感じない文明、あるいは家畜化された文明であると森岡氏は論ずるのだ。つまり人間が家畜化され、心と体のバランスが損なわれて、本来身体の主であるべき心が、身体に隷属することになる。…これを聞いたとき、私はだからこそ、山修行の持つ身体性は現代社会に重要な役割を持つのだと確信した。

山での修行で我々が一番に感じるのは、どんなに偉そうなことを言っても、この体ひとつでもって山の中を歩くしかない、という現実である。そしてくたくたになって思うのは、自分を超えたものの存在、つまり山中に在す神仏の存在である。

我々の修行は大自然の中に曼荼羅世界を見て、神と仏を拝みながら歩くのであるが、山修行のよいところは、聖なるものに包まれる中で、心と体のバランスを取り戻すところにあるのではないだろうか。都会生活ではいろんな場面で心に疎外感を持たされるが、山修行に没頭すると、実感として、心と身体のバランスを取り戻し、魂と肉体の一体感を感受するのである。

先日、今年の蓮華入峰に参加した人から手紙が届いた。「修行に行って身も心も垢が流れ落ちたような気分で家に帰ることが出来ました。それまではいやでいやで仕方がなかった自分の生活に生きる自信が甦ったような気分です。有り難うございました」。

山修行は無痛文明に陥った現代社会への妙薬となっているのではないだろうか。そんな思いにさせていただいた手紙であった。
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