tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

増上寺は、塔のある寺

2012年10月07日 | 小さな旅
9/29(土)、東京・三越前の奈良まほろば館で「検定で知る!奈良の魅力」(第1回奈良まほろばソムリエ講座)という講話をさせていただいた。午後2時の開始だったので、当日の朝から向かうつもりだったが、台風が近づいていたので大事をとって前泊した。翌朝は幸い台風もまだ来ていなくてとても良いお天気だったので、お寺参りをすることにした。

まず訪ねたのが、芝の増上寺(ぞうじょうじ 東京都港区芝公園)である。なお、かつて芝(芝白金台)には芝村藩(奈良県桜井市芝)の江戸藩邸があり、そのゆかりで地名が「芝」(東京都港区)になったそうだ。奈良の地名が東京に飛び火したとは面白いが、考えてみれば有楽町という地名も、そこに信長の弟・織田有楽斎(おだ・うらくさい=芝村藩の初代藩主だった織田長政の父)の邸宅があったことから名づけられたのである。

増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、徳川将軍家の菩提寺として知られている。定番の初詣スポットで、大晦日のカウントダウンでは鐘の音とともに約3000個の環境風船が夜空に放たれる。


大門(増上寺の表門)


三解脱門(増上寺の中門)

増上寺へは、地下鉄「大門駅」で降りる。大門は、増上寺の表門である。中門は三解脱門(三門)といい、都内有数の古建築であり東日本最大級を誇る。国の重要文化財にも指定されている。この日は薪能が行われるとかで、三解脱門は閉まっていたので、黒門(通用門)から入った。すると、突然目の前に巨大な塔が…。五重塔ではなく、それは東京タワーだった。


大殿(本堂)


安国殿

東大寺の創建時には高さ70~100mといわれる東西2つの七重塔があったそうだが、こちらは333mの電波塔だ。あまりにも近いので驚いたが、東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を用地として提供している。「高い建物のない時代には、ちょうどこんな感覚で七重塔を見上げていたのだろうな」としみじみとした気持ちでタワーを見上げ、何枚もシャッターを切った。




鐘楼堂。大梵鐘は寛永寺、浅草寺とともに江戸三名鐘の1つ

大殿(本堂)にはご本尊阿弥陀如来(室町時代)や宗祖である法然上人像がお祀りされていた。「ネットで百科」の「増上寺」の項を見ると《東京都港区芝公園にある浄土宗の寺。 浄土宗六大本山の一つ。 三縁山広度院増上寺,略して縁山という。 1393 年 (明徳 4) 浄土宗第 8 祖聖聡が,武蔵国豊島郡貝塚台局沢 (現, 千代田区平河町付近) にあった真言宗の光明寺を改宗して増上寺と改名, 念仏弘通の中心道場としたことにはじまると伝える。 第 12 世存応(ぞんのう)のとき,徳川家康の帰依をうけて徳川家の菩提所 (ぼだいしよ) となり, 1598 年 (慶長 3) 現在地に移された。大伽藍の成った 1608 年勅願所となり, その後関東十八檀林の筆頭,ついで総録所として一宗を統轄する機関となった》。


本堂(大殿)のご本尊


本堂の法然上人像

《16 年 (元和 2) 家康の没後安国殿が造営された。 2 代将軍秀忠の没後から 7 代将軍家継に至る御霊屋 (おたまや) が造営されるに伴って御霊屋の別当寺院が生まれ, 年とともに寺領,堂宇を増し,たび重なる火災にも徳川家の外護 (げご) のもとに再建された。 52 年 (承応 1) ごろには,20 万坪の境内に 20 余りの堂宇が建ち並び, 当時 3000 人にのぼる学僧がいて念仏の声は一山に鳴り響いたという。明治期に入って 1869 年 (明治 2) に勅願所となり, 72 年教部省の命によって大殿は神仏合併大教院となり, 皇祖大神がまつられたことがあった》。



《数度の火災で文化財の多くは失われ, 戦火をまぬがれた建造物は三門 (三解脱門), 大経蔵,御成門 (おなりもん) にすぎない。 しかし,宋・元・高麗の三大蔵経,浄土五祖図などの絵画, 家康の守本尊であった黒本尊などの彫像, 多くの日鑑・古文書などが保存されている。 境内の大梵鐘は重さ 150kgで東京一といわれ, 寛永寺,浅草寺とならぶ江戸三鐘の一つ。(中略) 現在,境内地は 2 万 7000 余坪と最盛時の 7 分の 1 に縮小されたが, いまなお本山として念仏門徒の霊域となっている》。

「20万坪の境内に 20余りの堂宇」とはすごい。してみると、やはり東京タワーは増上寺の旧境内地に建っているのである。名刹と電波塔とは、珍しい取り合わせであるが、タワー⇔増上寺コースは、いかにも外国人観光客に受けそうな観光ルートである。皆さん、東京に行かれた際は、ぜひ「333mの塔のある寺」をお訪ねください。

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2 コメント

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将軍家の寺 (あをによし南都)
2012-10-07 18:23:19
現代都市東京ですがこれもまた不思議とマッチする景色です。
旧境内にはプリンスホテルもあって結婚式場から眺められる東京タワーの景色がポイントになっているようです。

東京タワーに代って今ではスカイツリーが東京の顔ですがやはり都市においては塔は格別な存在です。
大阪では大坂城天守閣、名古屋では名古屋城ですが奈良の場合はどうなるのでしょう。
興福寺の塔は素晴らしく、奈良にとって景観上、奈良らしさを維持できているのは若草山や東大寺の大仏殿とともに興福寺の塔の景色が果たしている役割は大です。
しかしながら1300年の歴史でみると奈良時代から繰り返し再建されて室町時代まで奈良のスカイラインを表現していたのは東山の大和青垣を背景にした東大寺七重塔であったろうと思われます。
昨今、復元、再興案件が続いていますがやはり、奈良にあってはこの東大寺七重塔こそが究極の復元だろうと思います。
東大寺さんも意思をお持ちとのこと。ぜひ実現して、東京とは違う、奈良らしい塔の景色を再現したいものです。
返信する
東大寺七重塔 (tetsuda)
2012-10-08 12:39:56
あをによし南都さん、コメント有り難うございました。

> 現代都市東京ですがこれもまた不思議とマッチする景色です。旧境内にはプリンスホテル
> もあって結婚式場から眺められる東京タワーの景色がポイントになっているようです。

お堂も鉄筋なので、マッチするのかも知れません。江戸と東京がミックスした面白い風景です。

> 興福寺の塔は素晴らしく、奈良にとって景観上、奈良らしさを維持できているのは
> 若草山や東大寺の大仏殿とともに興福寺の塔の景色が果たしている役割は大です。

南都さんご存じの通り、司馬遼太郎は『街道をゆく』(24)の「五重塔」に書いています。出だしは《奈良が大いなるまちであるのは、草木から建造物にいたるまで、それらが保たれているということである。世界じゅうの国々で千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集して保存されているところはない。奇蹟といえるのではないか》。

興福寺五重塔については、厳しい見方が示されます。《興福寺の五重塔の場合、各層ほぼおなじであるばかりか、最上層の五重めの屋根も、勾配がずっしりと深すぎるのである。室町期の宮大工が、奈良朝やそれ以前の宮大工にそういう点では劣るといってもさしつかえはない》。

しかし、そのあとこう続きます。このエッセイの結びの文章です。《が、私は、この塔の重すぎる感じも、すてがたいと思っている。猿沢池をへだてて、水を近景として、むこうの台地を見たとき、ずっしりとまわりをおさえこんでいるのは、この塔である。薬師寺東塔の瀟洒な、天女が奏でるような形がそこにあっても、大観の抑えがききにくいかと思うのである。「この塔でいいんだ」私は、塔の精霊のために、ふりかえってそういった》。

> 奈良にあってはこの東大寺七重塔こそが究極の復元だろうと思います。東大寺さんも意思を
> お持ちとのこと。ぜひ実現して、東京とは違う、奈良らしい塔の景色を再現したいものです。

いいですね。大阪万博では古河パビリオン(東大寺七重塔を再現)の例がありました。建築には相当の年月とおカネがかかりますが、薬師寺白鳳伽藍の復興という良いお手本があります。ぜひ、実現していただきたいです。
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